スペードのA:見廻組暗殺説(その26:新たなる証言6)
龍馬と中岡を暗殺した後の今井の行動、世間の風評そして「あの」物証についてはどうだったか・・・「今井信郎実歴談」では、以下のようになっています。「私は、その晩前にお話申しました佐々木只三郎の処へ参って泊まりまして、翌日の市中の噂を聞くとなかなか大変な騒ぎです。 なんでも、それは新選組の仕業だらう、たぶんは紀州の三浦休太郎(安)が新選組と合体してやったのだらうという風評です。」まず暗殺後、佐々木の処に泊まった今井ですが、翌日三浦と新選組が組んで龍馬を暗殺したのだという風評を耳にしたと伝えています。「それにその晩渡辺が六畳に鞘を置いて返ってきましたが、その鞘が能く紀州の士の差したる鞘に似て居りましたから、愈々是れは三浦の仕業に違ひないということでした。」 ここで、初めて遺留品の鞘の持ち主についての証言が出てきます。今井の談によれば、鞘をおいてきたのは桑名藩の渡辺(吉太郎)であるとしています。 しかし、風評として「紀州の士の差したる鞘に似て居りましたから、愈々是れは三浦の仕業に違ひないということでした。」というのはどうでしょうか?当時の他の記録を見てもその鞘について「新選組原田左之助」という説は出ても「紀州藩三浦休太郎」の名が出てきた資料はありません・・・記憶違いだったのでしょうか?「暫くたつと果たして土佐の若い者が三浦の家を襲いました。するとそのときちょうど近藤(勇)が其処に居合わせて、一緒になって追い帰しましたので愈々斬ったのは三浦と近藤だという風説が高くなりました。」 ここでも事実と反する記載が出てきます。「天満屋事件」の記載と思われるこの部分ですがこの時、斉藤一、大石鍬次郎などの新選組隊士が護衛にあたっていますが局長近藤勇はその場にはいませんでした。明らかな事実誤認ではないでしょうか。 暗殺後の風評の部分は今井が直接関わっていませんので、間違ったうわさ話を聞いた可能性があります。ここでのポイントは、1 鞘を落としていったのは、渡辺である。この一点だけかと思います。 これが、近畿評論での「坂本龍馬殺害者(今井信郎実歴談)」のすべてですが、どう見ても「事実誤認」や「記憶違い」ではすまされない間違いが多くあると思われます。 ここで、この文章に矛盾が全くなければ龍馬暗殺は永遠の謎にならなかったのではないかと思います。 なぜそのような記載になったのかの解説は後回しにして、この「近畿評論」の文章を見て激怒した人物が痛烈に反論することになります。 戊辰戦争で土佐藩兵大軍監、明治十年の熊本籠城で司令官として偉功を立て、陸軍中将・農務大臣を歴任した谷干城です。