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テーマ:文鳥(380)
カテゴリ:文鳥飼育
文鳥について勉強すると必ず行き当たる、文鳥マニアには必須とも言える場所が「愛知県弥富市」です。
ピコちゃんに巡り合って始まった文鳥との関わりを深めようと、夏の終わりにこの聖地へ行く決意をしました。 まずは旅の起点となる名古屋市へ。中京へ降り立つのは初めてです。 名古屋は平日でも人でごった返しです。お昼時についたため旅行者やサラリーマンなどでどこのお店も混雑してました。 いわゆる「名古屋メシ」と言われるソウルフーズは決して観光客向けのものではなく、地元の人たちは並んでまでして食べていました。私はその前に新幹線で食事を済ませてしまったのでお昼に名古屋メシをいただけませんでした。 弥冨市は名古屋から近鉄線に乗って行きます。 まずは「近鉄弥富駅」の一つ手前の「佐古木駅」に降りました。 ここの又八地区は文鳥生産の農家が集中していたところです。町のあちこちに、今は縮小してしまった文鳥生産の往時の面影があります。 駅から歩いてしばらく行ったところの「白文鳥発祥の碑」。昭和45年建立です。白文鳥は明治初期に突然変異でこの地に生まれたもので、以後弥冨の生産者さんが苦心努力の末品種として固定化され、文鳥といえば白、白といえば弥冨というくらいに普及したのだそうです。そしてこの石碑はまさに手乗り文鳥の人気がピークの頃に建てられたという事です。 弥冨は昔から干拓で土地を増やした場所だったためにこのように海抜より低く、1959年の伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受けたそうです。いまだに語り草になる伊勢湾台風と、戦後間もなくの物資の欠乏は弥冨文鳥にとって厳しい試練の時でした。その二つの試練を乗り越えて、この地の白文鳥は生産量日本一を誇ったのです。 しかし70年代のピーク以降、それらの試練よりも厳しい波が少しづつ積み重なって文鳥生産は勢いを失ってゆき、今では1/100まで農家の数は減ってしまいました。その新しい波で決定的だったのは「子供の小鳥飼育離れ」と「鳥インフルエンザの風評被害」だったといいます。 又八地区には「白鳥」という地名がつけられ、小学校などの名前になっています。この白鳥は当然白文鳥から付けられたものです。この辺は通称「文鳥村」とも呼ばれていたそうです。 となり駅の「近鉄弥富」へ行きました。 駅のロータリーには市の特産物である金魚と文鳥をあしらったモニュメントがあります。 そしてここにしか見れない全国の文鳥マニアの聖地であるこの電話ボックスが、歩いて10分ほどの国道1号線沿いに鎮座しているのです。 高村光太郎の文鳥のように右の背の高いのがオス、低くしている方がメスと思われます。道路沿いの駐車場の一角にポツリと立っていて周囲に何もなかったので一周まわって写真を撮りまくりました。道路は車ばかり通って人通りもなく、車の運転手は「なんでこんなもん撮ってるんだろう?」と思っていたかも知れません(でもいいのです)。 このボックスはこれ一つだと思われますが、これや弥生地区にあったという「文鳥出荷所」やキャラクターを起こしてのアピールや「文鳥まつり」などで町を挙げて販路拡大を頑張ってたのが想像できます。それでも文鳥販売の規模は今に至るまで回復する見通しがなく、とても寂しい現状となっています。 ブームで生き物の命が振り回されることは許されませんが、文鳥の、そして弥冨の白文鳥の血筋が絶えてしまわない事を願わずにはいられません。 続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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