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カテゴリ:思い出話
日本の大学時代オレが所属していた美術サークルの部室には雑記帳が置かれていた。 今は大学のサークルというとウェブサイトを開設してインターネット上の掲示板などで周知をしたり雑談をしたりしているようだが、パソコンを持っているヤツさえ稀な80年代後半(当時は実は「マイコン」と呼ばれていた)は、この雑記帳が現代のネット掲示板やソーシャル・ネットワーク・サイトの代わりをしていたのである。 雑記帳にはサークルのイベントの周知だとかいった公的な書き込み以外に、自分自身の近況だとか、何かに関する自分の意見だとか、落書きやマンガや詩なんかを誰もが思い思いに書き込んでいた。誰かの書き込みにほかの部員が次々とコメントをしたり、1冊はだいたい2~3ヶ月で埋まった。今思えばまさに現代のブログやツイッターやネット掲示板のような機能を果たしていた。 ある日、部室に立ち寄り雑記帳を開いたら、1ページをフルに使って、バイクの挿し絵とともに1つの散文詩のようなものが書かれていた。その作者は、数ヶ月前に一緒にインドに行って一緒に死に掛けたあの後輩であった。部室にひとり居たときに綴ったのであろう、彼がいつも使っている特長のある茶色のペンで書かれたその文には、自分にはいろいろな悩みがある、それらをふっ切ろうとバイクに乗って飛ばす、それでも悩みはふっ切れない。しかし自分は何か目標に向けて全力で飛ばすしかない...といった、10代の青年の焦燥感、フラストレーション、決意etc.がイラスト入りでストレートに表現されていた(笑)。 性格の悪いオレは、そのページの空白を「ははははははははははははははははははは」と嘲笑の「は」の字で埋め尽くし(笑)、「どうしたんだ○○○(←彼の名前)、いったい何があったんだ?」「インドで一緒にラリっていた頃の○○○に戻って来てくれ!」とコメントした。インターネットの時代であれば、Facebookのように自分が賛同するような内容なら「いいね!」をクリックし、馬鹿馬鹿しい、しょうもないと思えば単にスルーすればいい。しかしオレも性格が悪い上に若かった(笑)。自分が仲間だと思っていたヤツの「青い」コメントをガマンできなかったのである。思えば、ネットの時代でいうところの典型的な「煽り」であった(笑)。 翌日、部室に行くと、雑記帳には早速彼のレスポンスが付いていた。「こんなにたくさん『は』を書いてくれてありがとう」「それが失敗に終わったとしても、自分は目標に向かって突っ走るという信念は変わらない」云々といった彼の持論が展開され、さらに「行くところまで行こうぜBaby!」の決まり文句の後に、「それとも…怖いのかな?」の一語で結ばれていた。自分の考えを嘲笑したオレのコメントに対し、「そういうアンタは実は『行くところまで行く』のが怖いんだろ?」と煽り返しているわけである。 2級上のオレはさすがに「売り言葉に買い言葉」を避けるため彼のレスをスルーし、以降のコメントを控えた。しかし、オレの子分格だった後輩の1人はオレを援護するつもりだったのか、雑記帳に彼を小馬鹿にするような書き込みをするようになった(笑)。彼が何かマジな書き込みをするたびに、「○○○のペンはウンコ色のペン」「行くところまで行こうぜベイビー、それとも怖いのかな?」といったように、彼の書き込みを茶化すようなコメントを書き入れるのであった(笑)。そんなこともあって、オレらとその後輩の間の溝は決定的になった。インドで一緒に死に掛けた彼がその後戻ってくることはなかった。 その彼と、宮城県で震災ボランティアをしてカナダに戻る前の晩、20年ぶりに再会した。大学卒業後まともな就職をせず、愛読していたバイク雑誌の編集部にアルバイトとして入社、正社員に昇格した後、一本気な彼はやがて姉妹誌の編集長にまで出世した。「行くところまで行こうぜベイビー」の信念は一過性の“青春の過ち”なんかではなく、ホンモノだったのである。 オレは彼と会ったら、インドで死に掛けた記憶を振り返るとともに、例の「ははははは」の書き込みの件を謝りたいとずっと思っていた。しかし、死に掛けた時のことは明確に覚えていた彼も、雑記帳の一件は覚えていなかった。 いずれにしても、彼がオレのようなロクでもない先輩に感化されず、オレと袂を分かつに至ったことは幸いであった。当時のオレも、ニヒルを気取りながら、ホントは彼にように「行くところまで行く」ような根性がなかっただけなのかも知れない。彼の「それとも…怖いのかな?」の一語は、今思えば図星だったのかも知れない...と思った20年後のオレであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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