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カテゴリ:思い出話
日本の大学時代の友人KとYと卒業後はじめて3人で会った。 普通に日本で就職して結婚したKは次女がこのたび我々の母校に推薦入学が決定したそうである。なお、面接にあたっては、父親が学生時代に何をしていたのかを質問された場合の対策として、このブログのこの記事を(読ませたくない部分をカットした上で)読ませておいたそうである。我々は元々美術サークルの先輩後輩だったのだが、美術では表現し切れない衝動を発散させるために猟奇バンドを結成し、京都のライブハウスを根城に卒業時まで2年に渡り絶叫演奏活動をしたのであった。もはや年に1回も更新していないこのブログだが当時のことを振り返って書いた記事が我々の母校への娘の進学に多少の役に立ったというのは誇らしいことではないか。 ちなみに当時一緒にバンドをしていたもう1人のメンバーMは実は昨年から母校で教授をしており、Kの娘はまったく無関係な学部に進学するにもかかわらず早くもMの講義を聴講したいと言っているそうである。 私は大学を卒業して間もなく渡米しほんの10年ちょい前までカナダの永住権を持っていたくらいだし、Yは一旦国内で就職したものの知り合ったイギリス人女性と恋に落ち彼女を追って30年以上前に渡英しているため、35年前に通った日本の大学のことなど普段は思い出すこともないのだが、「娘が母校に進学」と聞いた途端、若気の至りあるいは黒歴史と言ってもよい35年前の日々がとても誇らしい記憶として蘇るのであった。 我々は当時はあわよくばこの音楽で世界を変えてやるくらいの気持ちでバンド活動をやっていたのだが、Kの次女も世界をよい方向に変えるために我々の母校で学ぶらしい。正直、我々は勉学はそこそこで、課外活動に力を入れすぎたきらいはあるものの、コンプライアンスだのポリコレだので萎縮した現代では考えられないような昭和バブル期の「やりたい放題」の学生生活を満喫したことは確かである。我々がその後の度重なる試練にも打ち負かされることなく自分を信じて我道を邁進し35年後にお互いに恥じることなく再会を果たすことができたのもあの頃に「自分の力で世界を変えられるのではないか」と信じられる経験ができたからではないかと思うのである。 自傷したり破壊したり万引きしたり罵倒したりラリったり不摂生したあの当時の我々を周りのマトモな仲間たちは侮蔑し憐憫していたかも知れないが、35年経った今では娘が誇りに思うリッパなパパになったのみならず、還暦が数年後に迫った今でも世界を変えられるという手応えがどこかに残っている我々はこのまま老いさばらえることもスローダウンすることもなく死ぬまで我道を邁進し続けるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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