カテゴリ:エッセイ
今月一日、八歳下の弟が肺がんで亡くなった。 のどが痛くて声が出にくい、モノが食べられない、という症状で耳鼻咽喉科を受診したが、すぐに関西医大へ紹介された。 検査の結果、のどの症状は肺にできた腫瘍が声帯を圧迫しているのが原因だった。さらに肺がんは大腸にも転移していることがわかった。肺の腫瘍もさることながら、閉塞状態の大腸に穴が空いたら命の保証はないと言われて、七月二十二日に入院、翌二十三日、人工肛門の手術となった。 手術をした日の深夜、病院からの電話で駆け付けたところ、弟はゼイゼイと苦しそうな呼吸でベッドに横たわっていた。病院としてはこれ以上、手の尽くしようがないと言われて、最悪の場合を覚悟せざるを得なかった。 その日は終日、弟に付き添った。痛み止めのモルヒネが効いたのか、朝の七時ごろには苦し紛れに酸素吸入のマスクを取り外そうとする動作も収まり、呼吸はずいぶん楽になったようである。 少し気持ちにゆとりができたところで、弟の三人の子どもたちのことを考えた。弟は結婚して一男二女の三人の子どもがいたが、子どもたちが中学生の頃に離婚して、以後はほとんど行き来がなく一人暮らしをしている。 しかし離婚する前の一家は近所に住んでいたので、三人の子どもたち、ボクにとっての甥と姪は、ボクのことをビッグジョンと呼んで慕ってくれていた。そんなことを思い出しながら、〈とにかく弟のことを彼らに知らせよう〉と連絡を取った。 娘のマミとマオの姉妹は誘い合わせて、長男のコウジは仕事の途中で、それぞれ時間を取って病院にやってきた。耳が聞こえにくいことを伝えると、大きな声で「オトーサン、オトーサン」と呼びかけるがいまひとつ弟の反応は鈍い。 彼らはいったん引き上げて、五時過ぎにはそれぞれの家族を連れて再びやってきた。狭い病室は三組の夫婦と六人の子どもたちでいっぱいになった。 辛抱強く「オトーサン、オトーサン、俺や、コウジや、わかるか」と繰り返し呼びかけていた息子の声に、ようやく弟が反応した。 「えっ、オトーサン、わかったの? これ俺の子どもや、オトーサンの孫やでー」 「私、マオ、オトーサンわかる?」 「オトーサン、マミやで」 次々に呼びかける子どもたちの声に、弟は笑顔を見せてうなずいた。目が覚めて状況が理解できたらしい。 「オトーサン、痛いとこない?」 「全部吹っ飛んだよ、人生最高!」 声はかすれて聞き取りにくかったが、近くにいた長男のコウジが弟の言葉を皆に伝えた。病室一杯に「ワーッ」と大歓声が響いた。その場にいて見守っていたボクも感動で胸がいっぱいになった。 このひとことで、その場のみんなの緊張が解けたのか、三人の子どもたちは自分たちの父の思い出を口々に語り始めた。 「お母さんには怒られたけど、お父さんに怒られた記憶がないよなあ」 「お父さんにどこかへ連れて行ってもらったこともないよ」 「お父さんには、いい人がいたんやろか」等々。 この日から九日目の八月一日に弟は息を引き取った。その間、弟は小康状態を保ち、一日の大半は眠っていたが、大声で呼びかけると目を覚ましてなんとか会話がなりたった。離婚後、三人の子育てをして、現在は一人暮らしをしている彼の元の奥さんも、マミとマオの二人の娘の案内で病室に顔を見せた。交わした言葉は少なかったが、それなりに想いを交換できたのではないだろうか。 傍らでこのような経緯を見守っていて、弟も最後にみなに会えてよかったと、ほっとした気持ちになった。その時、ふいに弟に対する父の助言のことが頭によみがえった。離婚した後、弟は地元を出て生活に便利な市の中心部で一人暮らしをしたいと言い出した。それに対して父は、 「今は元気でも歳をとると人の世話にならねばならない時が来る。兄たちのいるこの地元で暮らせ。」と説得したのだった。 いま思うと父の言う通りにして正解だったのだろう。地元を離れて独り暮らしをしていたならば、あわや孤独死なんてことだってありえたかもしれない。 通夜と葬儀は弟の三人の子どもたちと相談して家族葬で行った。〈高岳優蓮禅定門〉、百八十センチ超の身長と優しかった性格にちなんでの戒名である。 ひとりの肉親の死に立ち会った暑い夏であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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