|
カテゴリ:抜き書き
女性に「聖人」という最高の称号 最後に、もう一人重要な女性信徒の例を挙げたいと思います。日妙尼という女性です。 それは文永九年(一二七二)の五月ごろ、この尼が幼い娘とともに鎌倉から信濃の山を越え荒波を渡り、はるばる佐渡の日蓮を訪ねてきたのです。この人は夫と早くに離別し、苦しい暮らしの中、女手一つで子を育てていました。 当時は日蓮が佐渡へ流され、教団全体が厳しい弾圧にさらされてから、まだ半年かたっていません。幕府の役人に睨まれたら、どんな目に合うか分かりません。その三カ月前には北条時輔の乱(二月騒動)も起こりました。その余燼も冷めやらず、国中に不穏な空気が漂っていたのです。山路には山賊、海路には海賊が横行しています。そんな危険をものともせず、幼子の手を引いて訪ねてきてくれたのです。 男性であっても二の足を踏む状況下に、か弱い女性が踏破してこようとは、思いもよらぬことでした。しかも、帰りの旅費のおぼつかないことを知った日蓮は、『法華経』一部十巻を渡すことを条件として、滞在先の主人に借金し、それを持たせて帰したほどでした。 日蓮は後日、言葉を尽くして礼状を送ります。 まず、経典や釈尊の過去世物語の中から不惜身命の求道者たちを列挙します。身の皮を紙、骨を筆、骨髄を墨、血を水として仏の一偈(詩句)を書写した楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)、どんなに罵られ危害を加えられようとも、「あなたは如来になります」と人に話しかけ、誰人を持軽んじることがなかった常不軽菩薩、餓死しそうな虎の母子を救うために身を投じて食べさせようとした薩埵王子、鷹に追われた鳩の命を助けるために自らの肉を切り取って鷹に与えた尸毘王(しびおう)。インドに法を求めて十七年がかりで十万里を旅した玄奘三蔵。唐に法を求めて二年、波濤三千里を超えた伝教大師……。 しかし、これらはみな男性です。女性の身で仏法を求めて千里の道を越えた例はありません。あなたは素晴らしい勇気と心根の持ち主です――と絶賛します。
須弥山を頭に載せて大海を渡る人を見ることがあったとしても、〔実語(真実の言葉)の中の実語である『法華経』を心得る正直の者である〕この実語の女人を見ることはできません。砂を蒸して飯とする人を見ることがあったとしても、この女人を見ることはできません。《中略》あなたは、日本第一の『法華経』の行者の女人です。ゆえに、名を一つ付けて、常不軽菩薩の義になぞらえましょう。日妙聖人です。 (『日妙聖人御書』、文永九年〔一二七二〕五月に十五日)
『法華経の行者』、そあいて「日本第一の法華経の行者」とは、それぞれ日蓮が伊豆流罪、小松原の法難を経て自覚したことでした。そして、「常不軽菩薩」は日蓮が『法華経』独自の菩薩である地涌の菩薩とともに自らの身に引き当てて論じていた菩薩です。その二つだけでも最高のなぞらえであるのに、さらに「聖人」とまで称しています。 「聖人」の号はとりわけ徳が高く、高潔な人格の教祖や高弟にしか用いられません。当時の他の宗教者ならば、貧しく、身分があるわけでもない寡婦にこんな称号を与えることはないでしょう。 これは、人間の価値は生まれで決まるのではなく、その人の行いによって決まると説いた釈尊の教えをそのまま実行していることでもあります。 日蓮は、実に言行一致の人でありました。
【100de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 30, 2023 05:19:15 AM
コメント(0) | コメントを書く
[抜き書き] カテゴリの最新記事
|
|