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カテゴリ:抜き書き
龍口の法難の顛末 末法の世とされた鎌倉時代初期、幕府や朝廷の後ろ盾を得て多くの仏教宗派が教えを広めましたが、混乱は一向に鎮まりませんでした。日蓮は混乱した世を正そうと、幕府に物申し続けましたが、幕府は黙殺しました。 また日蓮は、公の場でどの仏法が正しいかを議論して明らかにしようとしましたが、それは叶いませんでした。 文永八年(一二七一)六月、鎌倉で旱魃が起こったとき、極楽寺の良観が雨乞いの祈禱を買って出ました。良観はハンセン病患者の救済事業や、各地に道路や橋をつくるなど慈善事業をしていたことで有名でしたが、その陰で幕府に通じて私腹を肥やしているのではないかと日蓮は疑っていました。 日蓮はかねてから良観に公開討論を挑んでいたのですが応じなかったので、この機会をとらえ、「もしも、あなたが一週間以内に雨を降らせることができたら私が弟子になろう。降らなかったら、私のいうことを聞いて、あなたの心を改めなさい」という勝負に出ました。 結果、雨は降らず、悔しがった良観は謀計を巡らせ、日蓮を幕府に訴えました。「御成敗式目」には、偽りの訴えをしてはならないとあるので、本来、訴えた良観のほうが罰せられるべきなのですが、裁判もなされず、九月に日蓮は逮捕され、龍口刑場へと連行されます。 僧侶を斬ると仏罰があるのではないかと恐れる処刑人たちは、刑場へ向かう途中、鶴岡八幡宮の前で幕府の氏神である八幡大菩薩を叱り飛ばす日蓮を見て、さらに震え上がりました。いざ、処刑人が太刀を構えると、大きな丸い光るものが飛んできて、太刀が折れて、日蓮の首を斬ることができなかったといいます。怯える処刑人に日蓮の首を斬れなかったという事実があって、そこにいろいろと伝説めいた不思議な話が生じる余地がありました。最終的には、処刑は平頼綱の一存で決めたことで、それを知った執権時宗によって中止させられました。
コラム 植木雅俊の日蓮研究②
【100de名著「日蓮の手紙」】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)/NHKテキスト お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 1, 2023 06:04:58 AM
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