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希望をつくる 災害と〝心の復興〟 インタビュー 東北大学 平川 新 名誉教授
――東北の被災地では、防潮堤の建設や道路、鉄道の整備などが一段落ついた一方、震災から10を超え、震災意識の風化が進んだとの声もあります。
〝どのように震災の風化を押しとどめていくか〟との議論は、これまでも、さまざまになされてきました。それは、風化がマイナスにとらえられているからでしょう。風化とは、記憶や印象が薄れていくことですが、そもそも人間の記憶が、時とともに薄れてしまうのは仕方のないことだと思います。 むしろ風化をプラスに考えてもよいでしょう。 レジリエンスという言葉があります回復力や復元力と訳されますが、「立ち直り」と言い換えることができます。立ち直るためには、悲しみや苦しみを和らげ、薄めていく必要があります。震災の記憶が風化するということは、立ち直ってきているということでもあります。風化をレジリエンスや立ち直りの結果だと捉えれば、あまり風化を懸念する必要はないと思います。 では、震災の記憶を失ってよいかといえば、そんなことはありません。 風化の反対語は「教訓」です。教訓とは、経験したことを今後の糧として生かしていくことです。何を教訓とすべきか。それが、災害の経験から導き出された防災の知恵であり、災害への備え方であると思います。 その教訓すらも忘れてしまったら、それは問題だと思います。というのも、あの「3・11」には、先人たちが後世への戒めとして残した教訓を忘れ去り、生かしきれなかった側面があるからです。
大震災の教訓を忘れず 防災への当事者意識を
先人たちの記憶 ——具体的には、どのようなものでしょうか。 三陸地方には、数多くの津波碑が設置されています。その多くが昭和8年(1933年)の「昭和三陸地震」や、明治29年(1896年)に発生した「明治三陸地震」の時の教訓を記したものです。 碑文には、〝これより低い場所には家を建てるな〟とか〝津波が来たら、これより高い場所に逃げろ〟など、具体的な忠告が記されていました。しかし2011年に津波被害に遭うまで、その多くが草に埋もれ、私たちは、その存在すら忘れてしまったのです。 では、教訓として生きなかった津波碑には、意味がなかったのかと言われれば、決してそうではありません。 先人は、こうやって災害の経験を後世に伝えようとしていなかったと再認識することになったからです。私たちも、〝自分たちもの方法で震災の記憶を後世に伝えなければならない〟と考えるきっかけになりました。 津波や洪水、土石流、火山噴火など全国各地に建てられた「自然災害伝承碑」は、国土地理院のホームページでも見ることができます。それらを通して、それぞれの地域で起こった災害の種類や規模、その時の教訓などを知り、防災対策の心構えを継承していくことが大切だと思います。
――教訓を忘れいなためには、どのようなことが必要だとお考えでしょうか。 教訓とは、知るべきことをコンパクトにした、学ぶためのツールです。風化を少しでも押しとどめたいと考えるのであれば、教訓化して学ぶことが大切です。しかも、教訓を「具体化」させることが重要です。 日本人は、地震があった際、すぐに机の下に隠れますが、それはひとえに、幼いころからの教訓のたまものでしょう。 三陸地方には、昔から「津波てんでんこ」という言葉があり、震災後に広く知られるようになりました。「てんでんこ」とは、〝それぞれに〟〝バラバラに〟という意味の方言で、地震が起きたら、他の人の安否が気になっても、まずは自分自身が津波から逃げることを優先せよと教えたものです。
東北の負けじ魂 ――平川名誉賞受は、歴史を学び続ける中で、さまざまな角度から事実をとらえる大切さを、折に触れて強調しておられますね。東北の復興の歴史では、視点を変えることで、どのような姿が見えてくるのでしょうか。 従来、東北地方は自然災害が多く、凶作や飢饉の常襲地帯という凄惨なイメージが強調されてきました。もちろん、過去にどのくらいの被害があったのかを知ることは大事なことですが、災害が多いという歴史だけを学んでいては、暗い気持ちになるばかりではないでしょうか。しかし見方を変えると、度重なる苦境の中でも、東北の人々は決して屈せず、その度に立ち上がってきた歴史をもっているということができます。 例えば、17世紀、江戸時代の仙台藩では新田開発が行われています。これまでは同時期、全国各地で新田開発が盛んになってきたので、これもそうした産業振興の一環であると思われてきました。 ところが、その後の調査で、新田開発が行われた沿岸地域は、慶長奥州地震(1611年)で津波被害を受けた地域と重なり、反が入植者を募って開発したことがわかりました。仙台藩の沿岸地域での新田開発は、単なる産業振興だけではなく、津波被災地の復興事業として実施されたと見ることができるのです。 東日本大震災を経験したことで、災害からのレジリエンスという、歴史を解釈する新しい視点を得ることができるようになりました。そうした視点から歴史を振り返ると、東北の人々には、立ち直る力が満ちていることが浮かび上がってきます。 歴史研究から、復興に力を尽くしてきた先人の姿をたくさん見つけ出して、私たちの元気の源にしたいですね。
――聖教新聞では震災以降、11年にわたって東北の学会員等の取材を続け、復興の歩みを紹介してきました。そうした取材を通し、何があっても負けない東北の人々の力強さを感じています。
私が興味深いと思ったのは、聖教新聞には、個人の体験が、数多く掲載されているという点です。その一人一人は、置かれた状況も、そこでの人間関係も、そこからの復興の取り組みも違います。そうした一人一人が同震災と向き合い、苦難をどう乗り越えてきたのかを学ぶことは、まさに東日本大震災という歴史を、個人個人の視点から見つめることに通じ、震災の教訓を立体的に捉える力になるのではないかと思います。 また、一般的に、教訓というと「○○すべきである」という感じで、どうしても説教くさくなるのですが、聖教新聞で掲載されているのは、個人の体験だからでしょうか、そういったものを感じさせず、すっと心に入ってきます。
地域の歴史を知る ――これからは、震災の教訓を、世代を超えて継承していくことが欠かせません。本来どのようなメッセージを伝えていったらよいとお考えでしょうか。
私自身これまで歴史研究者としての立場から、東日本大震災の教訓を、いかに後世に残していけるかを考えてきました。その中で重要だと思うのは、この教訓を、東北はもちろん、いかに全国の人々の教訓としていけるかという点です。日本は災害頻発国であり、大規模災害は全国どこでも起きてもおかしくないからです。 その一歩として、私は皆さん一人一人に、一度、自分の住む地域の災害の歴史を調べていただくことをお勧めします。「災害と無縁な地域はない」ということがわかれば、災害を〝〟わが事と捉えるきっかけになると思えるからです。 その意味でも、創価学会青年部の皆さんが、すでに災害を〝わが事〟と捉えて震災意識調査を行ったり、災害の教訓を未来に残すために全国各地の青年同士で積極的に話し合ったりしていることは、非常に頼もしいと感じています。 東日本大震災から11年。これから、この〝わが事〟という当事者意識を広げていくことが、ますます重要になっていくのではないでしょうか。そのことを通じて、東日本大震災で私たちが真なんだ教訓も、未来に生かされていくと確信しています。
ひらかわ・あらた 1950年生まれ。福岡県出身。東北大学の東北アジア研究センター長、災害科学国際研究所初代所長、宮城学院女子大学学長などを歴任。東日本大震災で被災した建造物を遺構として保存すべきかどうかなどを検討する宮城県の有識者会議で座長も務めた。
【インタビュー】聖教新聞2022.3.11 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 2, 2023 06:04:59 AM
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