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August 29, 2023
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カテゴリ:歴史人物

戦国最強立花宗茂の返り咲き

歴史家・作家  加来 耕三

 勇気と誠実で勝機をつかむ

日本史の奇跡の一つに、戦国武将・立花宗重の返り咲きを揚げることができる。加えてこの人物は、十三歳の初陣以来、生涯にわたってのただの一度も、自ら指揮した戦いで敗北を喫したことがない、という信じられない戦歴をもっていた。

宗茂の実父・高橋鎮種(紹運)は、吸収制覇をもくろむ全盛期の大友宗麟(諱は義鎮)を支えた重臣であり、敵味方の真理を読みとる名人であった。

その血を受け継ぐ宗茂は、天正九年(一五八一)十月、十五歳の折に同じ渦中の重鎮・戸次鑑連〈べっきあきつら〉(俗称・立花道雪)の養子となったが、この養父も三十七度の戦をおこない、一度も敗れたことがない、という歴戦の勇将であった。宗茂は二人の父から、英才教育を施されて育ったことになる。

自らの切支丹改宗の結果、衰退した主君宗麟は、豊臣秀吉に臣属を誓うが、宗茂を豊臣家の直参とすることが秀吉の条件であった。

その後、宗茂は九州征伐で卓越した殊勲を立て、天下人秀吉をして、「その忠義、鎮西一」と激賞せしめ、筑後柳河(現・福岡県柳川市)に十三万余石をあたえられる大名に出世する。

朝鮮の役においても、宗茂は三千の立花勢で明軍三十万を切り崩したという快挙が、『天野源右衛門覚書』には記録されている。

――天下に、彼の武名は轟いた。〝天下分け目〟の関ヶ原の戦い――宗重は泣き秀吉への恩義から西軍に加担する。そして宗茂は、自ら主導した大津乗攻撃を指揮し、みごと開城させることに成功した。ところが、宗茂不在の関ヶ原で、西軍は東軍に完敗を喫してしまう。

宗茂は大坂城での徹底抗戦を主張するが入れられない。失意のまま国元へ引きあげた彼は、東軍・加藤清正の親身の忠告に従い、城を明け渡すことにする。

興味深いのは、それからの宗茂であった。数多あった高給の士官話に乗ることもなく、彼は京都、江戸に出て、徳川家からわずかに五千石の口がかかると、その申し出をすんなりと受ける。

人々が訝っていると、やがて奥州・棚倉(現・福島県東白川郡棚倉町)で一万石となり、元和六年(一六二〇)十一月には、十万九千石余で旧領柳河の領主に復帰するという、離れ技を演じることにつながった。

三十四歳で柳河を立ち退いてから、実に二十年目の帰国となる。なぜ、このような再起が可能であったのだろうか。当時の雑記は、宗茂が成した木世紀を、その人柄に求めた。

功があっても自慢せず、それらを家臣に譲り、自他共に奢侈を禁じ、民には〝恩〟を与え、将士を励ますには〝義〟をもってあたった。そこに宗茂の強さの秘訣を見ていたようである。

寛永十九年(一六九二)十一月二十五日、享年七十六で永眠。時代は三代将軍・家光の時世となっていた。

*宗茂の生年について、筆者は一五六七年説を支持するが、異説あり。

 

 

【文化】公明新聞2022.4.27






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Last updated  August 29, 2023 05:45:16 AM
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