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August 30, 2023
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カテゴリ:教学

3立宗宣言

「今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ」

御遊学の旅で、日蓮大聖人は、種々の経典や論書(経典の注釈書)を読み、諸宗の教義のかんようを学ばれました。その中で、最も優れた経典が法華経であり、その肝心である「南無妙法蓮華経」こそ、万人の苦悩を根本から景決する「法」であることを確信されました。

 

六難九易

救いを求める人々が、正しい教えに背いているという重大な転倒を目の当たりにして、大聖人がその原因を、諸宗の高僧たちの誤った解釈にあると見抜かれました。

しかし、その事実に気付かれたのは大聖人ただお一人です。それを口にすれば、当然、多くの人たちから反発を受けます。このことを、自身のうちにとどめておくのか、人々に言い伝えていくべきなのか――。大聖人は、立宗を前に一人、熟慮を重ねられます。その御心情を後年、「開目抄」に記されています。(新70・全200、参照)。御文に沿って確認します。

「このことを一言でも口に出すなら、父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による迫害が必ず起こってくるにちがいない」<注1>。しかし、言わなければ無慈悲と同じことになってしまう。

このように考えて、法華経や涅槃経の文に、言うか、言わないか、の二つを照らし合わせてみると、言わなければ、今世では何ごともなくても、来世には必ず無間地獄に転落してしまう。もし言うならば、三障四魔<注2>が必ず競い起こってくると分かった。

この二つの中では『言う』ほうを選ぶべきである」

このように一度は結論を出されますが、さらに深い次元で思索を続けられます。

「国の権力者による迫害などが起こって来た時に退転してしまうようであるならば、初めから思いとどまるがよいだろう」と。

しばらく思索をめぐらせた後、思い当たったのが法華経見宝塔品第11に説かれる六難九易でした。

六難九易とは、仏(釈尊)がなくなった後に法華経を学び弘めることの難しさを、六つの難しいこと(六難)と九つの易しいこと(九易)との対比をもって示したものです。易しいこととして挙げられているのは、〝須弥山を手にして、他方の無数の仏の国土に投げ置く〟〝枯草を背負って大火に入っても焼けない〟といった、実現することが不可能なことです。そうしたことすら、なお〝易しいこと〟とする、それ以上の難事中の難事が、〝悪世で法華経を説く〟〝法華経を受持する〟などの六難であると教えています。

その上で、釈尊は、いかなる苦難をも越えて、仏の滅後(釈尊の亡くなった後の悪世)に法華経を弘めるという誓いを述べるような菩薩たちに勧めているのです。

万人の成仏を実現しようとする深い仏の大願を受け継ごうと、大聖人は御自身の逡巡を打ち破り、末法における全人類の幸福の実現のために決然と立ち上がられます。

「このたびこそ、仏の覚りを得ようとの強盛な求道心を起こして、決して退転しない、との誓願を立てたのである」(同、通解)と。

この時の誓願を、後に配流となった佐渡の地で、「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」(新114・全232)と述べられています。のちの話になりますが、迫害の嵐に襲われても一歩も退かない、むしろ、難に遭うことは経文通りで、伸の法華経の行者としての誉れであるとの御確信で、生涯にわたって誓願を貫き通されるのです。

 

 

池田先生の講義から

(「九易」の例の中で)大聖人は、あえて「我等程の小力の者」「我等程の無通の者」「我等程の無智の者」との表現を取られ、凡夫であることを強調されています。

ここには、肉体的な力がなかろうと、神通力がなかろうと、智慧がなかろうと、誰人であれ確固たる誓いをもって仏と共に歩めば、無限の力、無限の勇気、無限の智慧がわき、いかなる大難にも越えることができるという、無限の希望のメッセージが込められているのではないでしょうか。 (「池田大作全集」第34巻)

日蓮仏法は、一宗一派の小さな次元を超えて、あらゆる人びと、あらゆる国々に開かれたものです。いわば「人類宗教」の開幕と拝すべきでしょう。

その意義から考え通してみれば、日蓮仏法は、「人間宗」であり、「世界宗」であると言える。

立宗宣言は、「人間生命に潜む根源の悪」「生命に内在する魔性」「一切の元品の無明」との大闘争宣言であったとも拝されているのではないだろうか。             (「池田大作全集」第32巻)

 

 

未来にわたり全人類を照らす太陽が昇った

 

 

「人間のための宗教」の開幕

建長5年(1253年)428日の「午時(正午頃)」。

故郷・安房国の清澄寺に戻られた大聖人が、同寺の僧侶らに教えを説くときが来ました。

この時、大聖人は、「南無妙法蓮華経」が根本であることを明らかにされました(新1618・全1189、新1207・全894、参照)。

それとともに、主に法然の専修念仏を批判し、法華経こそが真実の教えであり、題目を唱えることが称名念仏(「南無阿弥陀仏」ととなえること)などより優れた実践であることを初めて明らかにされます。

法然は、末法(釈尊の教えが効力を失った時代)において成仏することは困難であるとして、来世で阿弥陀仏の浄土に生まれることを目指すべきであることを説き、そのためには称名念仏こそが真実の実践であり、その他の教えは必要ではないと説いていました。それは、法華経に説かれる万人成仏の教えを軽視することであり。今ここの現実に生きる人間が持つ可能性を否定することに通じるといえます。

大聖人は、このような誤った教えをただし、「人間のための宗教」を弘めようと師子吼されたのです。

南無妙法蓮華経こそ、末法の民衆を救済する正法であるとの宣言です。今日、これを「立宗宣言」と呼びます。「立宗」とは宗旨(肝要の教義)を明確に打ち立てることです。人間の可能性を阻む根源的な迷いの闇を照らす太陽が、遥かな未来におよぶ全人類の頭上に輝き始めた瞬間でした。大聖人が32歳の時です。

真っ先に浄土宗を批判された大聖人は、続いて禅宗と真言宗(東密)、律宗<注3>、最後に密教化した天台宗(台密)を批判されていきます。この批判は、後に「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」と要約され、「四箇の格言」と呼ばれています<注4>。

この「四箇の格言」の本質について、池田先生は、「当時の各宗の独善性と、その独善性を宗教的権威で隠す欺瞞性を見破り、厳格に指摘された大聖人の『智慧』の発現」であり、「その根底に、民衆を守る『慈悲』がみなぎっていた」と強調されています(『池田大作全集』第32巻)。

 

 

東条景信らから弾圧起こる

  

道善坊からの義絶

立宗宣言以降、覚悟されていた通り、批判や迫害が起こりました。

その様子を、大聖人は「はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていただけであったが、見る人、会う人、聞く人、皆が、目をふさぎ、眼を開いてにらみつけ、口をゆがめ、手を握りしめ、歯ぎしりをするなどして、父母、兄弟、師匠、善知識(=先輩・同輩の僧侶たち)までもが敵対した」(新1768・全1332、通解)と記されています。

当時、東条郷の地頭を務めていた東条景信は、清澄寺一帯を支配しようとして、圧迫を加えていました(ノート参照)。さらに、清澄寺の円智房、実成房という僧も寺内で圧力を加えます(新253・全323、参照)。東条景信の怒りを恐れた道善坊は、あろうことか弟子である大聖人を義絶(師弟の縁を切ること)してしまいます(新253・全323、参照)。

その中にあって、浄顕坊と義浄房(義城房)という二人の兄弟子が、危害を加えようと迫る景信の手から大聖人を守り、清澄寺を出た大聖人の後を追ってひそかに清澄寺を出ました。この勇敢な行動を、大聖人は後に、「天下第一の法華経の奉公なり」(新254・全324)とたたえられています。

 

 

「日蓮」と名乗られる

この頃から、大聖人は自らを「日蓮」と名乗られたと考えられています。後に、「法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮また日月と蓮華とのごとくなり」(新1510・全1109)と仰せです。

池田先生は、「日蓮」との御名乗りについて、「日月のように衆生の闇を照らし、蓮華のように清らかに妙法の花を社会に咲かせていく使命を自ら悟られた」と語り、御名前に「万年のため」、「全人類のため」との大聖人の大慈大悲の誓願が込められていると拝されています(『池田大作全集』第32巻)。

やがて大聖人は、武家政治の中心地・鎌倉へ進出されます。(続く)

 

【関連御書】

「開目抄」「報恩抄」「清澄寺大衆中」

 

【参考】

(「池田大作全集」第32巻(「御書の世界」〔上〕)」第三章)、「池田大作全集」第34巻(「開目抄」講義)第六章)

 

<注1>「父母手をす(摺)りてな(成)しかども、師にて候いしかんどう(勘当)せしかども」(新1547・全1138)等を参照。

<注2>正法を信じ行じる時に起こる、それを阻もうとする働き。

<注3>奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に戒律復興運動に中で叡尊らによって新たに樹立された律宗。

<注4>「大難の来れるは、『真言は国をほろ(亡)ぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊』とのた(宣)もうゆえなり」(新743・全585)等。

 

 

ノートnote

東条景信

東条景信(生没年不詳)は、源頼朝から長狭郡一帯の支配を認められた東条七郎秋則の子孫と考えられています。(『国士大辞典』吉川弘文館の「東条景信」を参照)。

当時、幕府によって荘園(朝廷に認められた貴族や寺社の私有地)や公領(朝廷の公有地)に支配された地頭は、年貢の徴収や納入、警察権等を担いました。地頭はこの職権を背景として領主に年貢を納めなかったり支配権を拡大したりしたため、領主層との間で訴訟が起きました。

景信も同様です。

景信と領家(荘園領主)の尼との間に紛争が起こると、大聖人は、「重恩の人」(新1222・全907)であるという領家の尼の味方に付かれました。大聖人は「敗れれば法華経を捨てる」との覚悟で祈り、訴訟を勝利へと導かれます(新1208・全849、参照)この事件は建長5年頃のことと考えられていますが、定かではありません。

景信の背後には、浄土信仰に傾倒していた、第5代執権・北条時頼の舅であり連署(執権の補佐)も務めた北条重時がいました。重時一派の意向を受けた景信は、その後も訴訟を続け、ついに文永元年(1264年)、帰郷された大聖人を襲撃するに至るのです。この時点で重時は亡くなっていましたが、訴訟は重時一派の裁定により、大聖人は故郷から追放されることになります(新2113・全1413、参照)

そのご景信の動向は明らかではありませんが、文永8年に大聖人が佐渡へ配流されるまでには没したとも考えられます(新253・全323、参照)。

 

 

 

【御生誕満800年記念企画 日蓮大聖人―誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華20225月号






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Last updated  August 30, 2023 06:57:41 AM
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