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March 16, 2024
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カテゴリ:教学

9竜の口の法難・上 創価学会教学部編

 

良観に法華経への帰依を迫る

大蒙古国(モンゴル帝国)は再び自らの影響下にあった高麗(朝鮮の王朝)から日本に使者を送ります。文永9年(1269年)9月、日本に国書が届くと、朝廷は翌・文永71月に返書を作成し、鎌倉幕府に贈りましたが、幕府は認めず、蒙古との交渉自体を拒否しました。

 

 

改めて書状を送る

蒙古の侵略を恐れ、世の中が騒然とする中、幕府関係者や有力寺院は日蓮大聖人の主張を黙殺しましたが、文永611月、大聖人が改めて各所に書状を送られると、何通か返事が来ました。そのことから、幕府の要人も読んでいたと推測されます(新1354・全999、参照)。

同年12月には「立正安国論」を自ら書写して下総国(現在の千葉県北部とその周辺)の矢木胤家〈注1〉という人物に送られています。「立正安国論」を読んでみたいという要望が広がっていたのかもしれません。

一方で、大聖人に批判された諸宗の高僧は危機感を強め、大聖人を陥れようと幕府要人らに讒言(事実無根の訴え)を重ねます。

当時の様子が、「種々御振舞御書」(建治2年〈1276年〉御執筆)に記されています。

「国王にとっての重大事が起ころうとしているのだけでなく、それぞれの身の上に、大きな嘆きが起こるようなことがあるのである。それなのに、用いないどころか、悪口まで浴びせるとは、あまりのことである。これはひとえに、日本国の全ての人々が、一人も残らず皆、法華経の強敵となって、根が念を経たので、大きな罪が積もり、大鬼神がそれぞれの身に入った上に、蒙古国の国書によって正常な判断量を失い狂ったからである」(新1225・全999、通解)

 

 

祈雨の対決

文永8年(1271年)6月、日照りが続き干ばつが起きた時、同月18日から24日まで、極楽寺良観(忍性)が祈雨(雨乞い)をすることになりました〈注2〉。

このことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされます。それは、〝7日間の間に、一滴でも雨が降れば、私は良観の弟子となろう。雨が降らなければ、良観は法華経に帰依しなさい〟というものでした。

祈雨の校歌を自負していた良観はこの申し出を受け、「百二十余人」の弟子と共に、「頭より煙を出だし、声を天にひび(響)かし」祈願しました(新1575・全1158)。

しかし、雨が降る気配はありません。良観はさらに「弟子等数百人」を呼び集めて必死になって祈りました。けれどもついに、露ほども雨も降らなかったのです。

この間、大聖人はあせる良観に追い打ちをかけるように3度、使いを送られています。

「一丈(=約3㍍)の堀を越えざる者、二丈三丈の堀を越えてんや。やす(易)き雨をだにふら(降)し給わず、いわんやかた(難)き往生・成仏をや」(同)

7日目、良観は涙を流して悔しがりました。さらに7日経っても雨は降らないどころか、干ばつはますます激しくなる上、暴風が一日中やまず、民衆の歎きは深まるばかりでした。ところが良観は、大聖人の主張を受け入れるどころか、むしろ怨みを募らせます(新1576・全1158、新281・全350、参照)。

 

 

公の場で法論を求める

 

 

行敏の訴え

それから間もない78日、行敏という僧から大聖人の主張に対する不審点を記した書状が送られてきました。行敏は大聖人と対面して、真偽を明らかにすることを求めましたが、これに対して大聖人は、公の場で法論を提案されます(新867・全179、参照)これまで求めてこられた公場対決が実現する好機と考えられたのかもしれません。

行敏は大聖人の返答を受けると、幕府に大聖人を訴えました。日興上人によれば、行敏とは、浄土宗の僧・然阿良忠(然阿弥陀仏)の弟子の乗蓮のことです。行敏の動きの裏には、然阿や道阿弥陀仏(道教)、良観らの姿があったと推測されます。大聖人は、彼らが訴訟の主体であると認識されていました。

訴状では、大聖人の主張が諸宗を否定する不当なものであると述べ、さらに、大聖人門下が「阿弥陀仏や観音菩薩等の像を焼いたり、川に流したりしていること」等が罪状として挙げられました。こうした非難は、大聖人を陥れるためのでっち上げや言いがかりでした。

大聖人は反論書(陳状)を準備し、「慥かなる証人を差しだして申すべし。もし証拠無くんば、良観上人等、自ら本尊を取り出して火に入れ、水に流し、科を日蓮に追わせんと欲するか」(新871・全181)と追及された上で、良観らによる捏造であると喝破し、その重罪はすべて良観が負うものであると糾弾されています。

 

 

幕府による聴取

良観らはこれ以外にも訴訟を起こしたようですが、それらがすべて失敗に終わると、幕府要人の夫人たちに対して、大聖人を処罰するよう働きかけます。これには、彼ら以外にも、密教の僧侶たりも関係していたと考えられます。

「(日蓮は)『故最明寺入道殿』(=北条時頼)や極楽寺入道殿(=北条重時)のことを無間地獄に堕ちた」と言い、『(幕府の要人たちとゆかりのある)建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺などを焼き払え』と言い、『道隆上人や良観らの首をはねよ』と言っています。ご表情(=幕府当局者による合議)では何の処置がなくても、日蓮の罪は免れがたいでしょう」(新1227・全911、通解)

こうした働きかけの結果、幕府は、大聖人の主張を確認するため、大聖人を呼びつけたのです。

聴取に当たった侍所の所司〈注3〉である平左衛門尉頼綱らに対して、大聖人は答えられます。

「以上のことは、一言もたがわず言いました。ただし、最明寺殿や極楽寺殿について(彼らが死んでから)地獄へ堕ちたといったというのは偽りです。この法門は、最明寺殿や極楽寺殿がご存命のときから言ってきたことです。結局、この一連のことは、この国を思って言っていることですから、世を安穏に保とうと思われるなら、あの諸宗の法師たち(=道隆や良観ら)を呼び出して、私と対決させて聞きなさい」(新1228・全911、通解)

大聖人が「頸をはねよ」等と言われたのは、殺生を肯定されているわけではありません。むしろ、幕府の方こそが、以前から、大聖人や門下について「頸をはねるべきか、鎌倉を追放すべきか」等と議論していたのです(新1226・全910、参照)。大聖人の「頸をはねよ」という仰せは、〝頸をはねるというのであれば、何よりもまず、法華経の行者を誹謗し亡き者にしようとしている彼らの頸ではないか!〟という痛烈な反駁であり、憎悪に惑わされる人々の目を覚まさせるための慈悲の音声であったと拝せます〈注4〉。

取り調べの場であるにもかかわらず、大聖人は、御自身の主張を用いて謗法を捨て正法に帰依しなければ、必ず自界叛逆難、他国侵逼難がおこることをふたたび警告されました。頼綱は人目も憚らず激怒しました。

二日後の912日、大聖人は頼綱に書状(「一昨日御書」)を送られます。「そもそも貴辺は当時天下の棟梁なり、何ぞ国中の良材を損ぜんや」(新874・全183)を述べ、政治に携わり、天下の安泰を支える棟梁として、国内の人材を失うことがどうしてできるのかと、諫められました。そしてこの日、大聖人の御生涯を画する出来事が起こります。

 

 

 

 

 

池田先生の講義から

大聖人は、重ねて「不惜身命」の喜びを語られます。「常々考え、覚悟していたのは、まさに、このことだ。何と幸いなことだろう。法華経のために身を捨てることができるとは! 砂を黄金に代え、石で珠を買うようなものではないか」と。

この厳然たるお姿こそ、師子王の境涯です。

そして、この御聖訓通りに戦われた方が、創価の父・牧口先生であり、わが恩師・戸田先生にほかなりません。

両先生は、開かれた言論の広場である「座談会」を各地で刊行し、「不惜身命」の実践を貫き通したがゆえに、軍部権力によって投獄されました。牧口先生は獄死、戸田先生は、極限まで衰弱したお体で出獄されました。その崇高な師弟の闘争は、永遠の「学会精神の宝」であり、未来を照らし続ける「偉大な希望の光源」なのです。

(『大白蓮華』20124月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」)

 

 

さいわい()なるかな、

法華経のために身をすてんことよ」

 

 

捕縛

この日の夕方、頼綱に率いられて、武装した大勢の兵士が大聖人の草庵に押し寄せました。一僧侶を捉えるにはあまりにも仰々しく、「常ならず法にす(過)ぎ」たものでした。〈注5〉。

大聖人は、命の危険を察知されつつも、「さいわ(幸)いなるかな、法華経のために身をすてんことよ」(新1228・全912)と、悠然と臨まれました。

すると、頼綱の一番の家来(少輔房)が走り寄り、大聖人がふところに持っていた法華経の第5巻を奪い取って、それで大聖人の額を殴りつけました。法華経の5巻には、法華経の行者が三類の強敵に杖で打たれるなどの迫害を受けることを記した勧持品第13が含まれます。

兵士たちは法華経の巻物を庵室中にまき散らし、踏みつけるなどしました。その狂乱の姿をご覧になった大聖人は、頼綱に向かって大音声を放たれます。

「あらおもしろや、平左衛門尉がもの(物)にくる(狂)うを見よ。とのばら(殿原)、但今、日本国の柱をたおす」(新1229・全912

兵士たちは、大聖人の堂々としたお振る舞いに驚き慌てました。

捕縛された大聖人は、謀反人であるかのように鎌倉市街を引き回されます(新683・全1525、参照)。

午後6時頃(「酉時」)に処分が出て、大聖人は引付衆(裁判実務を担当する役職)で武蔵守(国司の長官)であった北条(大仏)宣時の邸宅に身柄を置かれました(新1276・全951、参照)。宣時は佐渡国の守護(国ごとに置かれ、軍事・行政を統括する職)でもあったことから、処分は佐渡への流罪であったと思われます。

後に大聖人は、この法難の際、頼綱に向かって、日本の柱である大聖人を倒せば、自界叛逆難と他国侵逼難が起こると警告したことを記されています(新204・全287、参照)(続く)

 

〈注1〉     下総国の守護だった千葉氏の一族とされる。

〈注2〉    「下山御消息」(新281・全349)を参照。「種々御振舞御書」には「六月十八日より七月四日まで」(新1229・全912)とある。

〈注3〉    侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は時間であるが、長官は執権が兼務するため、所司が実務の責任者。

〈注4〉    「立正安国論」でも、「釈迦の以前、仏教はその罪を斬るといえども、能忍の以後、教説は則ちその施を止む」(新42・全30)と、殺生を肯定する発言はされていない。

〈注5〉    「種々御振舞御書」には、「御勘気のよう(様)も、常ならず法にすぎ(過)てみ(見)ゆ。了行が謀反をおこし、大夫律師が世をみだ(乱)さんとせしをめ(召)しとら(取)れしにもこ(超)えたり。……太政入道の世をと(取)りながら国をやぶ(破)らんとせしに(似)にたり。ただ(只)事ともみえず」(新1228・全911)と記されている。

 

【関連御書】

 

「頼基陳状」「下山御消息」「行敏御返事」「行敏訴状御会通」「種々御振舞御書」、「一昨日御書」「撰時抄」

 

【参考】第32巻「御書の世界〔上〕」第八章)、「大白蓮華」20124月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」(「種種御振舞御書」講義、小説「新・人間革命」第11巻「躍進」

 

 

 

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