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カテゴリ:教学
佐渡流罪② 創価学会教学部編 文永9年(1272年)1月16日、佐渡だけでなく信越、北陸、東北などから諸宗の僧ら数百人が塚原に集まり、2日間にわたって日蓮大聖人との問答が行われました。これが「塚原問答」です。諸宗の僧らは、大聖人に徹底的に売り破られます。 17日に行われた弁成という浄土宗の僧との問答の記録が、「法華浄土問答抄」(新827・全117)として残されていますが、これは塚原問答中のものと考えられます。
弾圧を受ける意味を明かす
「開目抄」を御執筆 その後、大聖人は、佐渡到着以来、構想していた「開目抄」を完成させ、2月に鎌倉の四条金吾を介して門下一同に与えられます。 当時、大聖人の門下たちも、捕縛されたり、所領を没収されたりするなどの迫害に遭っています。これによって、多くの門下が疑いを起こし、信仰を捨ててしまいました。御書には、「千が九百九十九人は堕ちて候」(新1223・全907)と記されています。こうした状況の中で「開目抄」は著され、大聖人および一門が弾圧を受ける意味が明かされたのです。 「開目抄」では初めに、人が尊敬すべきものとして、「主師親の三徳」〈注1〉を示し、真実の教えを説いた釈尊こそが主・師・親であると述べられます。 そして釈尊の教えの中でも法華経が最高の教えであり、法華経の本門〈注2〉である如来寿量品第16の「文の底にしず(沈)めたり」(新54・全189)とされる「一念三千の法門」が、成仏の根本の原因、仏種となる法であると示されます。 ところが当時、法華経の教えにそむく諸宗の悪僧らに惑わされ、人々は正しい方である法華経を捨て去っていました。それにもかかわらず、このような現状を認識し、人々が悪道に堕ちてしまうことを思っているのは大聖人の一人であり、法華経に説かれた通りの大難に遭うことを覚悟の上で、人々に伝えていこうと誓願したと述懷されます。その後、実際に多くの大難を受けてきたことを述べられます。
衆生救済の大誓願 同抄の「後半では、「疑い」について述べられます。〝大聖人が法華経の行者であるなら、どうして諸天善神の加護がないのか。大聖人は法華経の行者ではないのだろうか〟という疑問を取り上げ、答えられていきます。この疑いについて、「この書の肝心、一期の大事」(新74・全203)とまで仰せです。 最所に、法華経の行者の内容に即して二乗・菩薩・天・人が法華経に対して大恩があることを示し、〝彼らが大聖人を守護する働きを著さないのは、大聖人が法華経の行者ではないからか〟との疑問を設け、門下に思索をうながされます。その上で、見宝塔品第11の「六難九易」や勧持品第13の「三類の強敵」などの文を考察しながら、法華経を末法に弘める法華経の行者が難を受けるのは経文通りであることを論証されます。 法華経に説かれた通りに実践された自らの御境涯を「当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(新101・全223)と、誇らかに宣言されています。 そして、法華経の行者を迫害するものには現罰があるはずなのに現れていない理由を示されます。それは、➀法華経の行者自身に過去世の法華経誹謗の宿業があるため、②迫害者が地獄に堕ちることが決まっているため、③国中の人々が謗法に陥っているので諸天善神が国を去ったため、という三つの理由です。 このように、疑問に明快に答えられたうえで、自身の命をなげうってでも末法の衆生を救済するという大誓願を示されます。 「詮ずるところは、天もす(捨)て給え、諸難にもあ(遭)え、身命を期とせん。……種々の大難出来するとも、智者に我が義をやぶられずば用いじとなり。その他の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちか(誓)いし願いやぶ(破)るべからず」(新114・全232) 法華経の行者として万人を救済するという大聖人の確固たる信念が、ここに示されています。 このことについて池田先生は、次のように講義されています。 「大聖人の御境地からすれば、諸天の加護の有無を超えて大切なことがある。いかなる大難があろうと、身命を賭して成し遂げねばならない。それは、仏が自らの大願として法華経で説いた、最高善である万人の成仏である。そして、その実現である広宣流布にほかなりません。これこそ、世間や門下の人々がこだわり、執着するものを超えて、大聖人が戦い取ろうとされたものなのです」(『池田大作全集』第34巻)(続く)
池田先生の講義から (『顕仏未来記』の「天台云わく……宝塔品の心を得たり」(新611・全506)を引いて)佐渡流罪という最大の苦境を耐え忍ぶこと自体、偉大な境涯の現われです。しかし、大聖人は、その中で御自身のことよりも、わが門下のことを案じられました。また、自身を迫害した為政者が幸福になるように願われた。一切を包み込んでいかれた。 これは、難を忍ぶという次元をはるかに超え、かくも人間は偉大であることを御自身の振る舞いで教えられたものと拝したい。 一点の悩みも迷いもない大境涯。それが大聖人の佐渡流罪の時の御心境ではないでしょうか。 それが仏界の生命です。決して単なる心の持ちようではない。厳しい現実を真正面から見詰められながらの「如実知見」(ありのままの真実を見る)の智慧です。(『池田大作全集』第32巻
〈注1〉 一切衆生が尊敬すべき主徳・師徳・親徳の三徳のこと。➀主徳とは人々を守る力・働き。②師徳とは人々を導き教化する力・働き③親徳とは人々を育て慈しむ力・働きをいう。 〈注2〉 法華経20品のうち、序品第1から安楽行品第14までの前半を迹門、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28間瀬の後半を本門という。本門の如来寿量品第16で、釈尊が始成正覚という迹を開いて久遠実成という本地を顕す。
[関連御書] 「種々御振舞御書」「開目抄」
[参考] 「池田大作全集」第33巻(『御書の世界〔下〕第十章』)、同第34巻(『「開目抄」講義』)、『大白蓮華』2012年6月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」(『種々御振舞御書』講義③)、小説「新・人間革命」第11巻「躍進」
【日蓮大聖人誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2023年6月号 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 27, 2024 05:20:54 AM
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