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カテゴリ:抜き書き
〝芸術村〟をつくった? 本阿弥光悦 桃山時代から江戸時代の初期に本阿弥光悦は刀剣の目利き・磨礒・浄拭を家業にしていた。本阿弥光悦は代々、法華衆の熱心な信徒で、富裕な京都町人だったが、母の妙秀がなかなかの人物であった。 結婚して間もない妙秀は、人を斬り血刀を持った押し込み強盗に顔色ひとつ変えず対応して着物・編笠と銭を与えて諭した話。息子二人、娘二人を育てたが、善いことをした時には褒めはしたが、決して人前で子を叱らずこっそりと倉の中に導いて「あなたの不作法、卑しいことを母はすべて知っていますよ」と諭し抱き寄せた。姉が仲人口で実際は貧しい家に嫁いだ。「身が貧しいことなど苦になりますまいに、富貴の人こそ有徳になるかどうか心もとないのです。夫婦の仲が良いのが一番」と夫光二に言った。孫、ひ孫から物をもらうと、妙秀はすべて他人に与えた。九十歳で彼女が死んだ時、特に何もなかったという。 そんな母の薫陶を受け、光悦は芸術的素養を身につけ、近衛家・烏丸家の公家や富豪と付き合って古典文学や武術の教養を学んだ。絵師の俵屋宗達と共同制作した「光悦色紙」は、関ケ原の合戦以後の平和を愛する人々に歓迎された。豪商の角倉素庵(了以の子)と『伊勢物語』『方丈記』『徒然草』などの優秀な嵯峨本を刊行した。また光悦は、楽焼きも手がけ多くの茶碗類を作った。 元和元年(一六一五)、徳川家康から洛北鷹峯に大きな地所をもらい、五十八歳の光悦は一族や職人と移住して芸術村を作り上げた。呉服商の茶屋四郎次郎、光悦の甥・尾形宗伯(光琳の祖父)なども光悦村に居を構えたので、光悦村は文化人のサロンとなった。 光悦は母の妙秀の教えを守り、質素な暮らしの中で文化的な創造に心を尽くし、八十歳で没した。子孫に「決して京を離れてはならず」と言い残し、江戸の武家に対して京都の町人としての誇りを守り通した。 (山嵜泰正)
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Last updated
August 17, 2024 07:48:55 PM
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