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August 19, 2024
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カテゴリ:抜き書き

大勢至菩薩がなぜ『法華経』に

『法華経』の第十九章常不軽菩薩品(第二十)は、次の言葉で始まる。

 

その時、世尊は〝大いなる勢力をかち得たもの〟(得大勢)という菩薩に語りかけられた。

(植木訳『サンスクリット版縮約 法華経 現代語訳』、三〇八頁)

 

そこで、釈尊は「〝大いなる勢力をかち得たもの〟よ」と呼びかけて、教えることのできない無量の劫もの遥かな過去に〝恐ろしく響く大音声の王〟(威音王)という名前の如来が無数に出現したことを明かす。その上で、

 

〝大いなる勢力を得たもの〟(得大勢)よ、〔中略〕その世尊の入滅後、正しい教えが衰亡し、また正しい教えに似た教えも衰亡しつつあり、その教えが増上慢の男性出家者たちによって攻撃されている時に、サダーバリブータという名前の男性出家者の菩薩がいた。

(同三一〇頁)

 

と語り、鳩摩羅什(三四四~四一三年)によって「常不軽」と漢訳されたサダーバブリーダという名前の菩薩について語り始める。

釈尊は、このサダーバリブーダ菩薩について語るのに、原文では「〝大いなる勢力をかち得たもの〟よ」と十八回も呼びかけている。けれども、その菩薩は返事も何もしていない。存在感のない菩薩である。それだけに、『法華経』を重視していた天台大師智顗も、日蓮もこの菩薩に注目することはなかったようだ。

子の菩薩の名前は、サンスクリット語で「マハー・スターマ・プラープタ」(maha-sthama-prapta)となっている。「ハマー」が「偉大な」、「スターマ」が「勢力」、「プラープタ」が「得た」「至った」という意味であり、鳩摩羅什による「得大勢」という漢訳に対して、私は「大いなる勢力をかち得たもの」と現代語訳した。ところが、『凡和大辞典』を調べると、「大勢至」とも漢訳されている。それは、僵良耶舎(三八二~四四三年)訳の『観無量寿経』に出てくる。この菩薩は、阿弥陀三尊像に向かって左側にひかえる脇侍である。

「得大勢」と「大勢至」を見比べて、両者が同一人物だったと気づく人はまれであろう。私はサンスクリットから翻訳したから気づくことができた。では、どうして釈尊は、常不軽菩薩の話を阿弥陀如来の脇侍である大勢至菩薩を聞き役にして語って聞かせたのであろうか。ここに重大なメッセージが込められているような気がする。

それを知るには、大勢至菩薩がどのような働きを持つ菩薩とされているかを知ることが一番であろう。それは、「智慧の光で一切を照らし、衆生が地獄界や餓鬼界に堕ちるのを防ぐ」とされている。これがヒントになるであろう。

サダーバリブーダ菩薩は、あえて人間関係に関わって、言葉によってい語りかけ、誤解されても感情的にならず、自らの主張を貫き、誤解を理解に変えて、共々に覚りに至るという在り方を貫いた菩薩である。

人間関係を通して教化することは、原始仏教以来、変わってはならない実践携帯であろう。原始仏教の『ダンマ・パダ』には、次のように記されている。

 

まず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことがないであろう。他人に教えるとおりに、自分でも行え——。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己はじつに制しがたい。

(中村元訳)

 

中村元先生は、この一節に基づいて、次のように語っておられた。

 

初期の仏教においても他人を救うことを教えている。しかし修行者が自己の神秘的な力によって他人を救うわけではない。また神の命令とか天命のようなものを受けて他人を救うのではない。そうではなくて他人を正しい道に入らしめた後に、その他人が他人自身の力によって他人自身を救うのである。〔中略〕修行を完成してみずから真実の認識を得ている人が、他人をして真理を理解させ体得させるのである。ゆえに他人を救うためには救おうとする人自身が修行を完成して、まず自分自身を救ったものであらねばならぬ。

(中村元著『原始仏教の思想Ⅰ』)、五五三頁)

 

以上のことからすれば、「光で照らすだけで人が救えるのか?」。人は、人間対人間の対話によってしか救うことはできない——ということを、釈尊は、サダーパリプータの振る舞いを通して大勢至菩薩に語って聞かせているように見える。

『法華経』においても第五章薬草喩品(第五)では、人間を相手に声(言葉)によって、すなわち対話をとおして人々を救済することが、次のように強調されている。

 

大きな雲が湧き起こるように、如来も世間に出現して、世間のすべての声をもって覚らせるのである。大きな雲が、三千大千世界のすべてを覆い尽くすように、如来は、世間の人々の面前で〔中略〕言葉を発して、声を聞かせるのである。

(植木訳『サンスクリット版縮約 法華経 現代語訳』

 

第十章法師品(第十)には、「教えの勝れた功力も、ブッダの国土への勝れた誕生も自発的に放棄して、衆生の幸福と、憐みのために、この法門を顕示するという動機で」生まれてきて、

「如来のこの訪問をとき示したり、密かに隠れてでも、誰か一人のためだけでさえもとき示したり、あるいは語ったりする人」(同、一八〇頁)のことが如来の成すべきことをなす人であり、如来の使者だと賞賛されている。ここも、人間の中で言葉によって語って教化することが重視されている。

原始仏教においても、『法華経』においても強調されていたように、神がかり的な救済を否定し、人間関係を通して、対話によって教化するのが仏教本来の思想であることを再確認する意図が、大勢至菩薩を聞き役とする場面設定自体に込められていたのだ。

 

 

 

【今を生きるための仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書






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Last updated  August 19, 2024 04:22:02 PM
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