|
カテゴリ:抜き書き
仏教思想からの人間の尊厳 不軽菩薩の振る舞いの「不軽」とは、人を軽蔑したり、馬鹿にしたりしないということであり、「礼拝」、あるいは「私はあなたを軽んじません」と訴えることには、人を尊重するということがこもっている。日蓮は、不軽菩薩が「礼拝」の行を貫いた理由を、次のように意義づけている。
過去の不軽菩薩は、一切衆生に仏性あり。法華経を持ちたば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるなるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給いしなり。法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん、かくの如く礼拝し給う。 (『松野殿御返事』)
何をもって人間を尊しとするのか。ここでは「すべての人に仏性がある。その人を軽んじることは仏を軽んじることになる」という意味で、人間、あるいは生命を最大限に尊重しているのである。そこにおいては、男女の別も問われることはなかった。これが、「法華経」の人間観である。 『法華経』方便品の、
正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、衆生に如来の知見を開示するという理由と目的で世間に現れるのだ。正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、衆生を如来の知見に入らせようという理由と目的で世間に現れるのだ。正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、衆生に如来の知見を悟らせるという理由と目的で世間に現れるのだ。正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、衆生を如来の知見の道に入らせるという理由と目的で世間に現れるのだ。 (『サンスクリット原典語訳 法華経』上巻、四九~五〇頁)
これは次のように漢訳されている。
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏の知見を示さんと欲するがゆえに、世に出現したもう。衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するがゆえに、世間に出現したもう。 (『梵漢対照・現代語訳 法華経』上巻、九四、九六頁)
あるいは、「我が如く等しく異なること無からしめん」(同、一一〇頁)といった言葉もこれと軌を一にしている。不軽品に説かれたこうした『法華経』の人間観について、ヴァスバンドゥ(世親、三二〇ごろ~四〇〇ごろ)は、『法華論』に、
「我汝を軽しめず、汝等は皆当に作仏することを得べし」とは、衆生に皆、仏性有ることを示現するなり。 (大正蔵、勘二六、九頁上)
と述べている。「仏性」はサンスクリット語のbuddhatva buddhadhatuなどの漢訳語である。衆生が本来、見えている「仏となる可能性」「仏としての本性」といった意味である。 この「仏性」(如来蔵)という言葉は、中期大乗仏典(四~五世紀)の『般若経』や『勝鬘経』などで用いられるようになったもので、初期大乗仏典(一~三世紀)の『法華経』には用いられていない。しかし、如来蔵思想研究の大家であった高崎直道先生が、拙訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』の出版記念会でおっしゃっていたように、『法華経』には仏性という言葉は用いられていないが、その考えはすでに現れている。ヴァスバンドゥは、その思想を汲み取って記述したのであろう。 天台大師智顗も『法華文句』の不軽菩薩の振る舞いについて論じたところで、
内に不軽の解を懐き、外に不軽の境を敬う。身に不軽の行を立て、口に不軽の教を宣べ、人に不軽の目を作す。 (同、感三四、一四〇頁下)
と述べている。外部の軽んずべきではない対照を敬うことや、身によって不軽(軽んじない)という行為を貫くこと、口によって不軽の教えを語ること、他者を軽んずべきでない存在として見ること、その根本には、心(=意)の中に「不軽の解」を招くことが必要だというのだ。 その「不軽の解」について智顗は、世親の「仏性」の考えから説明している。
不軽の解とは、法華経に云く、「此の菩薩は衆生に仏性有るを知り、敢えてこれを軽んぜず」と。
これを加味して、先の智顗の言葉を現代語訳すると、
自分の心の中で「一切衆生に仏性がある」ということを信ずるがゆえに、自分の外側にある「軽んじてはならない」対象を敬うことができる。すなわち、身体〔の振る舞い〕において「軽んじない」という実践を貫き、口(言葉)において「軽んじない」という教えを説き、あらゆる人に対して、「軽んじない」という見方をすることができるのである。
となる。〈意〉すなわち心に「衆生に皆、仏性有る」ことを信じるがゆえに、〈身〉にあらゆる人への礼拝をなし、〈口〉に「我深く汝等を敬う」と語り続けるのであり、身・口・意の三業で、すなわち全身全霊で不軽の礼拝を行じることができるのである。 この「業」(karman)とは、振る舞い、行為のことである。〈身〉と〈口〉が振る舞い、行為と捉えていることが注目されている。それは、あらゆる行為の根本には心の思いがあるからである。 心に思ってもないのに、口先だけや、格好だけの態度では、いつかメッキがはげてしまう。不軽菩薩が、悪口・罵詈されても決して瞋恚(憎悪)を生ずることなく、軽んじないという振る舞いを貫いたのは、〈意〉に「不軽の解」が不動のものであったからであろう。だからこそ、〈身〉と〈口〉と〈意〉の三拍子そろって人を敬うことができたのである。「不軽の解」とは、言い換えれば、誰人も仏性を具えており、尊厳なものであるという人間観を体得していることと言えよう。 「不軽の解」を智顗は、「衆生に仏性有るを知る」ことと説明している。衆生に仏性を見るためには、まず「自己に仏性有るを知る」ことが第一である。それによって、自己から他者への「不軽の解」の拡大がある。原始仏典の『サンユッタ・ニカーヤ』第一巻には、
あらゆる方向を心が探し求めてみたものの、どこにも自分よりももっと愛しいものを見いだすことは決してなかった。このように、他の人にとっても、自己はそれぞれ愛しいものである。だから。自己を愛するものは、他の人を害してはならないのである。 (七五頁)
とあったが、ここにも自己から他者へと拡大する同じ論理構造が見られる。自己を愛しいもの(不軽)と思うが故に、他人のことを愛しいもの(不軽)と見ることができるわけである。ここでは素朴な表現がなされているが、智顗は、これを「仏性」という概念を用いて言い換えているのだ。 さらには、日蓮の『一生成仏抄』の次の言葉も同じといえるであろう。
一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも知る処を妙経とは云うなり。
「一心」とは、自己の心のことである。自己の心が、妙法(最高の真理)にのっとったものであることであることを知ったとき、それはまた翻って「余心」、すなわち他者の心も妙法にかなったものであることを知る、あるいは信ずることができる。そこで、他者にもその事実を知らせようとして言葉によって語るという行為に打って出る。そのようにして語られた言葉を「妙経」と言っている。 「だれ人も菩薩行によってブッダとなることができるのだから、だれ人をも軽んじない」という不軽菩薩の人間観に根差した「礼拝行」について、日蓮は「自他不二の礼拝」として次のように述べている。
「不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向って礼拝を成す時、浮かべる影、又我を礼拝するなり。 (『御義口伝』)
〈他者〉の仏性を礼拝することは、翻って、相手から自らの仏性が敬われ、礼拝されていることになっているというのだ。逆に〈他者〉を軽んじていることは、〈他者〉の仏性を軽んじることであり、翻ってそれは自己の仏性をも軽んじていることを意味している。いやゆる、「自他不二」「自他平等」(paratoma-samata)である。七世紀ごろのシャーンティヂーヴァ(寂天)は、「他者を自己のうちに回転させること」(paratma-parivartana)を目指せと言った。自他の融合が大乗の実践倫理であった。 しかも、不軽菩薩が語りかけた相手が、増上慢の四衆であったことも大事なことである。不軽菩薩は悪口・罵詈されながらも、彼等に対しても変わること無く礼拝行を貫いた。その結果、不軽菩薩は『法華経」を自得して六根清浄を得、四衆も自らの非を覚り不軽菩薩に心服随従するようになる。
【差別の超克 原始仏教と法華経の人間観】植木雅俊著/講談社学術文庫 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 31, 2024 06:41:30 AM
コメント(0) | コメントを書く
[抜き書き] カテゴリの最新記事
|
|