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カテゴリ:抜き書き
永遠・常住に根差した〝今〟における実践 法華経の行者の自覚の深まりとともに、永遠・常住の世界が、日蓮自身の体験した世界として描写されてくるように思います。それが、日蓮の著作に「日蓮」を主語とする描写が多い理由でありましょう。 日蓮は、一般論的としての理論よりも、具体的な歴史的事実として、自らに体験した世界を説いたといえます。それが、天台等を「理」とし、自らを「事」として位置付けた理由でありましょう。 法華経の行者の実践を通して、現在において虚空会に列座する——それは永遠・常住の世界であり、そこに連なることによって大確信の歓喜・法悦がほとばしります。そしてまた、その永遠・常住の世界に列座しつつ法華経の行者の実践へと還ってまいります。それは、何も日蓮に限ったことではなく、「所化をもって同体なり」とあったように、弟子檀那もまた、しかりであります。 三世にわたる歴史的使命を自覚した地涌の菩薩の、永遠・常住に根差した「今」という瞬間における実践がそこにあるのであります。この地涌の菩薩について『法華経』従地涌出品には、
「善く菩薩の道を学びて、世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」
とあります。 蓮華は汚泥の中より出でて、その汚泥に染められることなく、自ら清浄な花を咲かせるという譬えを踏まえた説明です。蓮華の清浄さに象徴される歴史的事実にかかわりを持ちつつも、それに染まることがない。しかも、自らは蓮華のように清らかな存在として、その現実社会を浄化していく働きを持つということであります。地涌の菩薩は、あえて現実社会という汚泥の真っただ中で弘通し、菩薩の実践を貫きますが、永遠・常住の世界に一念を置くがゆえに、自らそれに汚されることなく清浄であることができるし、また現実社会をも清浄ならしめ、変革することができるということでしょう。 日蓮がその実践によって示さんとしたことは、まさにそのことであり、その底流には永遠性に根差しつつも現実へのかかわりを重視する歴史的な時間意識があったということが確認できるのではないでしょうか。
【仏教に学ぶ対話の精神】植木雅俊著/中外日報社 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 3, 2024 04:46:11 AM
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