|
テーマ:ヨーロッパ旅行(4254)
カテゴリ:クロアチア
ザダール(Zadar)を夕方出航し、翌朝にはスプリトに到着。 スプリトは、ザグレブ(首都)についで、クロアチアで2番目に大きな町です。 海に面して、広いプロムナードがあり、活気があります。 ここの一番の見所は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮殿遺跡です。世界遺産にも指定されています。とにかく、観光客が多くて、ほかの団体のガイドさんの声にかき消され、自分たちのガイドさんの説明がよく聞こえませんでした。個人でも見て回れると思うのですが、次から次へと団体が入ってくるので、個人では、大聖堂などに入り込むのが至難の業では・・・と思ったほどです。 ディオクレティアヌス宮殿を海側でないほうに出ると、前に赤い大きなネクタイをした建物が目に付きます。ネクタイの発祥地は、クロアチアなのだそうです。ギフトショップでも、Croat のa の部分がネクタイの形になっているロゴの商品をよく見かけました。 クロアチア軍が、フランスに遠征したとき、クロアチア軍が首に巻いているスカーフがフランスで受け、流行するようになったそうです。フランス語で、ネクタイのことを、Cravat というそうです。これは、Croat と Harvat の合成語なのだそうです。Croatiaのことを、現地語では、Hrvatska と言います。だから、クロアチアのウェッブサイトのアドレスは、最後が、hr になっているのです。 ちなみに、ドイツ語でも、ネクタイのことを、Krawatte と言います。 Splitは歴史的建造物も多いのですが、どちらかというと現代的な匂いのする町です。 私たちのスプリト出身のガイドさんは、「スプリトは、美男美女の産地でもあります。クロアチアの美人コンテストでは、いつもスプリト出身者が優勝します。」と言ってました。マンウォッチングをするのも、スプリトの楽しみなのかもしれません。でも、観光客ばかりで、地元の人なんて、どこに行けば会えるのやら・・・。 スプリトをお昼過ぎに出航し、Korculaに向かいました。その間、船の中では、クロアチアの歴史についての講義があったのですが、私はニコちゃんとキャビンで昼寝。参加した夫と恵子の話によると、実際に戦争を経験した人の話もあり、バルカン半島の複雑さを痛感したようです。 先のユーゴ内戦で、一番先に独立したのが「スロベニア」。10日間で戦争は終結し、独立を勝ち取りました。でも、そのお隣のクロアチアは、ドロドロの内戦に突入し、独立を勝ち取るまでに、4-5年かかってしまったわけです。その傷跡は、今ではすっかり消えてしまったようにみえ、観光地はどこも大変な賑わいですが、それでも、1989年に比べると、人口も減っているし、観光業も20パーセント減っているのだそうです。 そうこうするうちに、コルチュラ到着。ここは、マルコ・ポーロの生誕地です。マルコ・ポーロは、ベネチア人ですが、当時この地域は、ベネチアの支配下にありました。でも、本当にここで生まれたかどうかは、定かではないようですが・・・。 「マルコ・ポーロ生誕の地というのがここの売りのひとつになっていますが、生家が公開されているわけではありません。生まれと思われる近くにおみやげ物屋さんがあり、マルコ・ポーロアイス、なんてものも売ってました。 ここに限ったことではないのですが、海は本当に透明できれいでした。でも、クロアチアの海岸は、ほとんどが岩場や小石の浜です。うにもたくさんいました。 コルチュラの目の前に大きな島が見えました。あとで地図を見たら、それは、島ではなく、ペリエシャッツ(Peljesac)半島でした。 ここには、スプリトから船で来る方法と、ドブロフニク方面からこの半島を経由しオレビッチ(Orebic)で来る方法があります。船から眺めるコルチュラの町は素敵でしたが、わざわざ遠くから足を運ぶほどでもないかな、という気もしました。この島には、たくさんの美しいビーチがあるそうですが、コルチュラのタウンからは少し離れているようで、日帰りでは、ビーチまで楽しんで・・という日程はきついのでは、と思います。 次は、いよいよドブロフニクなのですが、順番をとばして、その次の寄港地コトル(Kotor)のことを先に書きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年06月02日 18時38分24秒
コメント(0) | コメントを書く
[クロアチア] カテゴリの最新記事
|