祝う! 広島市 「猿猴橋」 大正時代復活
広島に戦前の面影を忠実に復元した橋が完成しました。3月28日に渡り初め式が、関係者一同羽織はかま、大正15年の落成当時のままに挙行されました。正面から撮れず(車道に入れず)、この角度となりました。当然渡り初め式当時の写真は真正面からで(交通規制)、その写真をネットで見つけましたがコピー出来なかったのです。その名は 「猿猴橋」橋名の由来は 「猿猴川に架かる橋」 からであり、猿猴とは河童の一種。「猿猴橋」 は駅前大橋の南側次の橋です。橋長 62,4 幅員 8,5猿猴橋から見た駅前大橋です。 駅前大橋から見た正面、広島駅です。広島駅周辺は今再開発で騒然としています(音はありませんよ。笑)。 駅構内自体も。1年後には大枠で完成? って状態です。↑猿猴橋の直ぐ傍にある商業施設&マンションビルで、52階建ての今内装段階、完成したら広島一の高さになります。さて 「猿猴橋」 に戻りますが、江戸時代(始まりは安土桃山時代)当時は、防犯上の理由により橋の架橋は制限されており、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋となりました。猿猴橋町は東側から広島城下に入る玄関口として、浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなりました。1894年(明治27年)、日清戦争勃発、広島城内に広島大本営が設置され、東京から行啓してきた明治天皇は広島駅からこの橋を通り大本営へ入っていかれました。↑ここ迄は当然木造です。台風、風水害で何度か架け替えられたものと思われます。大正15年2月、猿猴橋は鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられ、施工業者 "妻木組" の妻木伊三郎の私費により、金物で飾られた贅を尽くした美しい橋に仕上がり、渡り初めには遠方から大勢の人が来たと伝えられており、当時の絵葉書にもなっていると云う事です。当時の自治体は意外と余裕があったのかと、その意匠に驚きましたが、装飾部分は私費、でしたか(驚)。橋名を記した四隅の親柱の上に、地球儀に乗り羽ばたく大きな鷲の像(吉祥)が、欄干には猿猴二匹が向かい合って、1つの桃を掲げている銅製の飾りがついていました。ところがこの妻木伊三郎さんの情熱も敢え無く、金属製の飾りはその後、太平洋戦争中に金属類回収令によって昭和18年には取り外され、その後は石造りの本体だけとなりました。私が見て来たのは、当然この石造りの、それも原爆を受けた(落橋は免れた)汚なげな印象の、何じゃ、こりゃ、的なものでした。と云うのも、直ぐ傍に併設して水管橋があり(これも破損を免れ)、↑ほれ、この時に水管橋がありましたね。でも市中に水を送ると云う大切な役目を担っていた事を、かつての私は知らず、この橋の優美だった姿も知らず、ただ秘かにこの橋を疎んじていましたね。↓そのままの印象でこの猿猴橋君は生き続けて、、、60数年。地元の人がここで声を上げました。構想、着工数年(原爆で設計図が焼失)。 平成28年3月28日に見事、故妻木伊三郎さんの無念さも回復の運びとなったものでありましょう。あ、当然今度は公費ですよ。 ついでに水管橋も取り外され、すっきりしました。↓猿猴橋町側の親柱2本の内一本。 つまり鷲が地球儀の上に乗る吉祥の像は、両方の入口に計4本あるのです。↓橋の途中では、次の様に多少グレードは落ちるもののやはりランプの装飾が美しいです(夜間ライトアップ)。↓欄干に刻まれた 「猿猴」 です。どう見ても猿にしか見えませんが・・・報道では、猿猴の中に含まれている漢字の猿に因んで、何て言ってましたよ(笑)。↑向こうに見える市電が通る橋は、荒神橋と云い、中央に広島電鉄本線の軌道、その両側に車道と歩道がある併用橋です。広島にはドイツハノーバーからの車両とか、色々美しい市電が走っています。戦後間もなくからの車両もありますし、新旧色取りどりですよ。↓改めて大正15年当時の面影を見てみましょう。施工業者 "妻木組" 妻木伊三郎の心意気が天晴でしたね。私も超久々の多数の写真投稿記述で疲れました。でも最後に、猿猴橋に関わる感動的なある人物の漢詩を載せなければなりません。川辺には 「日本外史」 で著名な頼山陽が京都から広島に帰省し、広島城下東端の猿猴橋に差し掛かった時に作った、漢詩が紹介されています。江戸時代後期の歴史学者で大阪生まれですが、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(広島市中区袋町)で育ちました。目頭が熱くなりました。歴史上の人物が、今この眼前で生きている気がしましたね。橋に歴史あり、を地で行っています。広島は古来7つの川で成る(旧市内)と言われていて、現在は西の二つの河が太田川放水路として、改修されて6つの河となりましたが、そこに掛かる橋の数は、又他都市を凌駕するのではないでしょうか。