カテゴリ:こころの森
気功合宿で学んだ中で、簡単でしかも最高に気持ちいい準備体操のようなものがある。リラックスして立ち、両手を広げながら上げて大地の気を取り入れ、下げて邪気を取り払う。同じように両手を上げながら天の気を受け取り、身体の中を通すというものだ。中健次郎さんの初歩の気功は、とてもシンプルで効果抜群のような気がする。ここ数日、ジョギングで出かける秘密の原っぱで練功していると、生きているということを考えているこのごろの自分が、なんだかかわいい存在に思えてくる。 今朝は青空が広がり、天地のはざまで遊ぶに最高の気功日和だった。大地の気が手からも立っている両足からも流れ込んできた、とイメージした。10数年前に始めたころは言われた通りに忠実にやったものだが、再開した今は、どうもそんな気になれない。身振りもイメージもどんどん自分流に創り直している。この身体と心が一番喜ぶ功法こそ、ぼくにとっての気功だと思える。 たとえば、邪気を払う、ということがぼくにはどうも理解できない。邪気って、いったいなんなんだ。邪悪なものがぼくの中にあるのか。いや、人を嫌ったり批判したりする限り、それを邪気というのだと言われればそうかなと納得するしかないか。けれどもだ。ガン細胞にさえ愛を送って完治させてしまった寺山心一翁さんみたいな人がいたりする。大先輩なのに心さんと呼んでしまうほどに気さくな方で、いつもニコニコ満面の笑みを浮かべていらっしゃる。心さんの世界には、邪悪なものが存在しているんだろうか。 流れ込んできた大地の気を感じ、息を吐きながら両手を横に広げてゆく。自然に生まれた自己流だ。広げながら、大地の中に溶け込んでゆく。うまく行けば、大地というよりも、地球とひとつになってしまう感じさえする。吐き切ったら、自然に吸う。吸いながら両手をまた少し上げ、大地の気を身体中に満たしてゆく。そして最後に吐く時は、両手をゆっくりと下ろしながら、満たしていた気を大地に返してゆくのだ。それは決して邪気なんかじゃない。大地とぼくの好ましい気の交流だ。ぼくがどんなにちっぽけな存在だとしても、それを創り出した創造主というものがいるのだとイメージするとき、もはや邪気などという狭い了見に囚われるのは似つかわしいものじゃなくなってしまう。 豊かな滋味深い大地の気と交流したあとは、どこまでも大らかな天の気とふれあう。気のシャワーを浴びるようなものだ。身体の表面に、内側に、背骨の中にと光り輝いたエネルギーが流れてゆく。遠くの山肌からガサッと音が聞こえた。ここには鹿が住んでいる。近所では熊が出た年もあった。星野道夫さんのことを想った。白熊に襲われたなら、どっちが命を落としてもそれは熊とぼくがひとつになることだ、というような話をどこかで書いていた。そして本当にひとつになってしまった人だ。天地の気とふれあいながら、極上の気分を味わっている今、もしも熊が現れたならぼくはどうするんだろうと、ふと思った。逃げ惑うようじゃ、気功もまだまだ本物じゃないだろうなと思うとおかしくなった。けれどもいつかは本当に天と地の気と、ぼくはひとつになるに違いない。死んでゆくとはそういうことだと、かの荘子が言っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 22, 2007 11:29:55 AM
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