カテゴリ:ふかしぎ光山愚静庵
一度断食というものをやってみたかった。おまけに沈黙という得難い経験もできる。2月に参加した小食念仏道場が実に良かったからと、迷わずに参加した愚静庵の沈黙断食道場だった。ところがふたを開けてびっくり。ほとんど一日中念仏と瞑想の繰り返しで、静養気分でなんとなく描いていた内容と大きなずれがあった。 初日にして、「こんなことやめて帰ろう」と思いはじめた。何時間も声を出して念仏を唱え、なにが沈黙だ。これじゃ修行だ。修行は好みじゃない。静かに座るための瞑想の時間だろうに、ぼくの心と頭の中はグルグルと不平不満の渦がさかまいた。ああ、いやだ。ほんとにいやだ。 そこに現れたのが、比叡山千日回峰行を2度までも満行された酒井雄哉大阿闍梨の姿だった。お会いしたこともなければていねいに著作を読んだこともないのに、なぜだか比叡山を歩いている様子が浮かんできた。「なんのために歩いているのか」。死をも覚悟した行を続けながら何度迷われたことだろう。単純なぼくだ。「阿闍梨さんの過酷な行に比べたら、こんな道場、屁でもない」と思い直していた。 4人の参加者のうち2人が体調をくずして、何日かはタカちゃんとぼくだけになった。正座や結跏趺坐などできないぼくは長い時間姿勢を保つのさえ苦労したが、それは若いタカちゃんも同じようで、たまに足を伸ばしたり背中を叩いたりしていた。ぼくはぼくで、念仏のリズムに合わせながら得意の背骨ゆらし。まったく行とも言えない、滑稽な行の姿だ。 ああ、もうだめだ。体力気力ともに果てそうになる度、タカちゃんがシャキッと座り直して、姿勢を正し合掌した。それを見て、ぼくもまた立ち上がれた。娘ほどの世代だろうに、大したもんだ。弥山堂から見えるふかしぎ光山に向かって、ふたりで手を合わせながら想像した。タカちゃんとぼくは同じ星からやってきた同士なんだ。いまふるさとの星では大変な紛争が起きている。ふたりで並んで祈りながら、それを鎮めているところなんだ。面白くもない念仏の時間は、ぼくの想像をふくらませる愉快な時間にもなった。 こうしてなんとか、1週間の道場を乗り切った。まったく、ようやく乗り切った。「少し念仏と瞑想の時間を減らしてほしい」と願い出て、完璧にやり遂げたわけではないんだから、乗り切ったとはお世辞にも言えないかもしれないが、それでも時々の助けがあり、それぞれに得るものがあるんだから、互いに影響しあう人生とはほんとに不思議なもんだと感じてしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Nov 23, 2007 08:43:17 AM
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