カテゴリ:小説
私は佐伯君とはそんなには会わなかった。会っても月に一回か二回会えればいいほうであった。私はいつもかつも佐伯君のことばかり考えてもいられなかった。大学のほうは就職活動やら卒論などすべきことが多かった。就職のほうは大方決まったが卒論が全然進まず、いつも図書館にいた。私は図書館の空間が好きで、よく一人になりたいときなど来ることが多かった。大きい大学で私はいつも道に、いや人に酔っていたがこの大きさは構わない。一つの空間にいるよりは心が幾分おおらかになる、浪人のときにいた予備校は実に狭く感じた。実際そんなに狭くもなかったかもしれないが、息苦しさは多々あった。人が一つの空間に密集していて、休み時間など外に出ないと特有の臭いのあまり気分すら悪くなることもあった。これは特に2年目のとき。今はただ懐かしさのみ。
どうしても佐伯君の考えなくてはならないときがある。佐伯君から連絡が入ったときだ。 いつも大した内容ではない。福岡のほうが暖かいだの今の予備校の先生についてだの、他愛もない内容が多い。そんなメールを受け取って、また受け取らせ、佐伯君は何が言いたいだろうとふと考え始めると、佐伯スイッチが入ってしまう、気分はすっかり浪人生。私は少し恐れていた。佐伯君が身近に来たことで私が佐伯君に汚染されるのではあるまいかと。私は佐伯君を友達だと思っていた。そしてそれは高校の頃でどうやら止まっているらしく、浪人以降、親の心境になるときもあったり、友人以下他人になりたいと思うときもあった。私は浪人生を少し軽蔑し始めていた。それは私が浪人を経験してどういうものか分かっているから、あるいは自分の偏屈な考え故からかもしれないが、そうして佐伯君に再び触れ合ううちに自分が浪人生のような心地になり始めていた。 もう私は浪人生でもなんでもない。 浪人が人生の全てだと、あるいは佐伯君は考えているのかもしれない。 夢を追うその助走期間、その場所に酔いしれているのかもしれない。そんな人とは会いたくもない。佐伯スイッチはしかし入ってしまう。 「予備校にもだいぶ慣れたよ」 「それは良かった」 「先生も良い人ばかりで環境がすごくいいんだ」 「それは、良かった」 佐伯君とは久しぶりに近くにいることになった。ここ数年自分が福岡に行ったこともあって、こんなに距離を近く感じたことはなかった。実際今会いに行こうと思えばかなり近かかった。電車を乗り継げば容易に会える。佐伯君に会う用がないときも近くを通るときがあって、そして予備校も通ることがあって、少し見上げると何やらその校舎には昨年度の合格者のことについてあれこれ書いてある垂れ幕に目がいく。○○大学合格者○名! 私はこういった垂れ幕を浪人時代何度も見ていた気がする。そうしてここにいれば、この予備校に居さえすれば何だか自分も受かるような錯覚に陥り、気分は和らいでいたのだ。私はそんな垂れ幕に愛すら感じていた。 ある日私がその予備校の近くに用事があったとき、佐伯君を見た。丁度昼どきだったから佐伯君は近くのコンビニに向かっていたらしかった。私は声を掛けようか迷ったが、あちらが気付いた。 「カズ!どうしたこんなところで」 私は佐伯君にカズと呼ばれていた。 「いや、この近くに用事があって来ていたんだ」 「そっか。俺は今昼休み」 意外と明るく見えた。佐伯君は少し笑っていた。顔は相変わらず細かったが、それでも幾分はマシになっていた。その様子に少しホッとしたのと同時に気に食わなさも感じた。いつも暗かったら確かに気が滅入るか、そうも思えた。一緒にコンビニに入った。 「佐伯君はいつもここで買ってるの?」 「大体そうだね。ここのお弁当おいしんだ、あっこれなんか中々」 いやに慣れて見えた。 「良かったらそこの公園で食べない?」 気分はいよいよ浮浪者。 私は押しに弱かった。特に佐伯君に言われるともう断れない。細くなったとはいえ身長はゆうに180センチを越えていてこれで後は体重がついてくればさぞ異性にも好かれることであろう。 「今日は良い天気だね」と佐伯君。 「もう5月だしね。暑いくらい」 「新参者の浪人生は何とも思ってないだろうね。この時期の大切さを」 浪人のとき、よく何月がどうとか例えば夏休みが山だとかいうことをよく耳にした。そして自分の中で季節が数字に変わり、受験する日までの残り日数を常にカウントしていたのを思い出す。センターまで後○○日、教室の黒板にもどこかしこに書いてあった。そして季節の香りを楽しむことを忘れ、ただその数字と悪戦苦闘して、焦りを感じていた。浪人すると月日は実にあっという間に過ぎていく。月日が数字に変わればその情緒さはいよいよ単純化し機械的になる。そんな自分に一度は嫌気がさす。それでも私は浪人生、何とかして自分を高めていかなければ、いいコンディションで、いいモチベーションで毎日勉強せねばならぬ。などと考えてふと我に返るときもある。そうこうしているうちにどんどん日にちは経っていく。気が付くと後数ヶ月、けれど自分は浪人をしたというのに何をやっているんだ。また焦る。これではいけないと邁進する。気が付くと何日なのか考えたくなくなる。堂々巡りで受験日を迎える。 佐伯君はそういった浪人の新参者をあざ笑うかのように得意げで昼食を食べていた。新参者、自分でいうにそれは1年目のとき、あのときは何も分からなかった。だがそれはしょうがないことで初めて体験することは皆右も左も分からなくて当然、そこに慣れるというのは浪人に限っては違う。佐伯君はやはり浪人を楽しんでいるようだった。いやそれは知らず知らず、あるいはそうならざるを得なかったようだ。不憫さを感じ、世界の狭さを感じた。あそこのお弁当はあれもおいしいと佐伯君はしきりに得意げ。 「カズは今何しているの?」 「俺は・・今は卒論に没頭している」 「卒論か・・大学生の響きだね」 「まぁ曲がりなりにも大学生だからね」 時間はやがて1時半になろうとしていた。予備校の昼休みは意外と長く大学よりも少し長い。この昼休みというのが厄介で満腹に食べるのはいいがその次の授業から異常な睡魔に襲われる。昼以降、特に夕方まではこの睡魔との対決でもある。授業がなくて自習室にこもるときはさあ大変、緊張感がなくなれば自然と眠りが近くなる。自分は特にそうだった。朝は朝で眠いながら予備校に通うわけで昼は昼でこうして睡魔と闘わなければならない。浪人生に限ったことでもないが、仕事が完全に勉強に限られた浪人生にとってはある意味この眠りのサイクルとの闘いになる。そうしてそういったサイクルを覚え始めるのもまた浪人生ならではである。そのサイクルを覚え始め、慣れを身につけると浪人生という身分におぼれ、何かを見失い始める。浪人の罠。自分自身に打ち勝つ真の強さ、精神力が当然ながら要求される。 佐伯君は眠そうになりながら私と別れた。私は予備校までついていって、少し予備校の中を見た。活気のある予備校、威勢のいい先生達の声が聞こえる。少し懐かしさを感じ、出来ることなら少し入ってみたい気もした。 「じゃあ頑張ってくる」 そういうと佐伯君は予備校の中へと消えていった。青空の中、どんとたたずむこの行く異空間。外と中。私は佐伯君との距離を感じずにはいられなかった。私はもう闘いの中にはいない。闘うことを恐れたのではないが、もう私自身この今起こっている受験という闘いの中にはいない。佐伯君は未だ格闘している。体力面を恐れ、精神面を恐れ、そうして大きな境界線が私と佐伯君の中には存在していた。私はひたすらに応援するより他なかった。 6月。私は一人の人に会った。その人を始め私は全く知らないでいたが、すぐに理解出来た。とある喫茶店に私が卒論についてあれこれ考えているときにいきなりその人は話しかけてきた。 「あの、佐伯という浪人生をご存じ?」 コーヒーを頼んで煙草なんぞをゆっくりとふかしているときに突然ひょいと言われて私は驚いた。 「佐伯君、ですか。ええまあ知ってますが」 その人は女性で社会人らしかった。身なりがいかにも社会人らしく大学生とは違ったオーラを見て取れた。 「私、佐伯の彼女なんです」 いきなり話しかけられてそれはそれでびっくりしたが、彼女、という言葉にさらに驚いた。佐伯君の彼女、そんな存在がいたなんて私は知らなかった。 「と、とりあえず座りませんか?」 「あ、すいません。いきなりで驚きましたか?」 「ええそれはまあ。それで私に何か用ですか?」 女性は席に座り、持っていた鞄を横に置き、そうして私のほうを向いた。佐伯君には似つかわしい容姿の整った人。しかしどこか覚えがあった。どこかで見たことのある顔。 「私を忘れたのカズ君?私よ、高校の頃一緒だった、川口よ」 思い出が蘇る。川口、川口・・。視線を上にやり考えが合致した。 「あっ、あー。はいはい、川口さん。いや・・久しぶりだから忘れていたよ」 「ふふ、カズ君は全然変わってないわ」 「そ、そうかな。川口さんが大人らしくなりすぎたんだよ」 「ふふふ」 高校の当時、その頃から学年で一番人気のある人だった。そして川口さんは佐伯君と付き合っていた。私には釈然としないものがあったが、あの頃の佐伯君ならば致し方ないと思っていた。そうして時が流れてもう何年になるだろう。まだ付き合っていたのか、と改めて驚いた。 「佐伯君とその後も続いてたんだ」 「ええ」 「だいぶ長いよね。そんなこと、佐伯君からは一言も聞いてなかったよ」 正確に言えば嘘になる。浪人の時、そんなことをほのめかすことは聞いていた。 「もう、そうね、やがて7年かしら。高校の3年から付き合い始めたから」 「7年?それは長いね。・・佐伯君あれからだいぶ変わったし」 「ええ、彼は浪人生になって変わった」 川口さんはそう言うと下を向いた。私は咄嗟に何か頼めば、と言ってメニューを見せた。しかし彼女はそれに応じずただうつむいていた。私は口を呈した。すらすらと物を語りすぎたと後悔した。話を変えた。 「そ、それにしてもよく自分がここにいるって分かったね」 「・・・ええ。あなたがこっちにいると彼から聞いてて。彼とあなたがここに来ていたのも見ていたし。私この近くに住んでいるの」 その日は休日で何気なしにこの喫茶店に来ていた。そういえば一度ここに佐伯君と来たこともあった。私はここを気に入っていた。 「そっか。さっきはごめん。考えもなしに聞いちゃって」 「いいのよ。ただ彼のことになるとついこうなっちゃって」 「・・いろいろ聞いても大丈夫?」 「ええ・・私もそのつもりで来たんだから。・・何か頼もうかしら」 彼女はここで有名なコーヒーを頼んだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.04.10 06:54:58
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