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細木数子かわら版

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2008.04.10
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カテゴリ:小説
「いい、あなたと違って私はもう社会に出ているの。社会は時間を待ってはくれない。あなたは浪人していて社会とは切り離されたところにいて、そんなあなたといると私までおかしくなっちゃうの。これは私のわがままよ」
「ちょっと落ち着けよ。何だか俺が来年も駄目みたいな言い方じゃないか」
「私には少なくともそう感じられるの。あなた、ちっとも変わってやしない。いいえ、あなたは浪人して変わったわ。でもあなた、何だかその空間が気に入って出てきたがらないような気さえするわ。そんなあなただから私は嫌になってきたの」
「どうすればいいんだ?」
「受かって。受かって早くこっちに来て」
私はただ傍観していた。何ならこの場から離れたいとすら思った。一通り話し終わると彼女は私のほうを見た。
「カズ君、聞いたでしょ。あなたは証人。これで彼は受からなければならなくなったわ」
「何だよ、試していたのか」
「いいえ、本気よ。だからこそちゃんと他の人にも聞いてほしかったの」
私は理解した。そして彼女の覚悟もちゃんと受け取った。佐伯君は納得がいかないらしかった。
「俺だって本気さ。来年は受かってやろうと必死なんだ。来年こそは、って思うからこうして環境も変えて今まさに、夏、正念場をこうして頑張っているんじゃないか。成績だってしっかり出ているし」
「今の成績なんかちっとも関係ないわ」
「ああそうだ、そうかもしれない。でも多少はそうして自分を正当化させてもいいじゃないか。そうでもしないと自分自身が保たれないのさ。何より自分が浪人に犯されているって気が付いているんだ」
二人が事前に頼んだ料理はとっくに冷めていた。
「気づいているなら話が早いわ。いい、来年は絶対に受かって。もうこれ以上あなたが苦しむところを見るのは私はもううんざりなのよ」
「分かった、分かったよ。受かってみせる」
佐伯君は覚悟を改めて口に出した。受かりたくない受験生などいない、浪人生などいない。けれど周りから見れば私もそう、彼女もそう、確かに彼は少しおかしかった。そうして浪人という空間を楽しんでいる、と誰の目にも明らかだった。だがそのことを本当に言ってくれる人もそうはいない。彼女はそれだけ彼のことを想っているからこそ言った。そして私にもそれは充分に分かるし伝わった。
佐伯君は来年受からなければならなくなった。
そうして佐伯君は帰る身支度を始めた。
「食べていかないの?」
「もういい。こんなことをしてもいられなくなった」
「分かったわ」
佐伯君はじゃあ、と言って彼女を見、私を見、一礼して立ち去った。
立ち去って少しして私はそこにいた。冷めた料理はすっかり怒っているようにも見えた。
「さ、早いとこ、食べちゃいましょうよ。もったいないわ」
「うん」
その料理はひどくまずく感じた。おいしくも何とも思わなかった。

 佐伯君とはめっきり会わなくなった。そうして川口さんと会う機会が多くなっていった。それは当然の流れであり、そうして二人はただ応援者。それしか佐伯君にすることは何も無かった。山場だという夏はすぐに過ぎた。暑さのピークもようやく越え、浪人生はやがて秋へと差し掛かる。春が過ぎ、梅雨が過ぎ、浪人生は慣れを覚え自分の今ある立場を弁える。そんな時期を越えると夏がやってくる。新参者はどんなものか分からず、とりあえず山なのだろうという感じでただ夏を過ぎる。何年も経験している人でもあるいはそう感じるのかもしれない。かく言う私もそこまで重きは置かなかった。けれどだいぶ意識して乗り切ろうと思った。私はしっかりとした浪人生に成りきれなかった。けれどしっかりとした浪人生になることが成功なのかそうでないのかそれすらも分からないままただ闇雲に勉強していた。
連絡がないところを見るに佐伯君は夏を乗り切ったらしい。
川口さんには少しだけ連絡していた。そういうことをちょいちょい聞いていた。
「成績は夏も良かったらしいわ」
「そっか。まあまだ安心はできないけど」
佐伯君を眺めるうちに私に置ける自信の喪失の矛先は自然と浪人時代に向けられていった。自信は浪人のときに無くしていた。少なからず何かを無くしたのだろうという儚さを持って私は今日生きているのではあるまいか、と思うと少しやりきれない。
ただ、もうあの頃には戻れない。戻ろうと思っても、それはもう到底無理なのだ。
そして、あまり戻る気もない。それは経験したものにしか分からないものである。
 川口さんとは会うというよりはメールや電話が多かった。彼女は一端の社会人で日頃あくせく働いているのであるが、それでも佐伯君のことをやはりしっかり見つめている。彼女はあんな風に変わってしまった佐伯君を持ってしても、まだ愛という不確かな何かを持って彼と接していた。真実味を帯びてくると少し悲しいその愛も私は本物に近いものに感じた。彼女の愛は真なり。揺るぎない時を越えてただ彼だけを見ているようであった。浪人生に恋は必要か、と考える。そうして自分の経験と照らし合わせてみると疑問符が付く。恋が勉学に拍車を掛けるという構図はあまり似つかわしくはない。恋は盲目、そうして時に現実が見えなくなってしまう恐れすらあり。結論は定かではない。
 今年一年がいやに早く感じた。ただ時が過ぎるのを待つということをせず、色々と行動し、悩んでいた結果、過ぎ去った季節をいやに早く感じた。感じた時はそこかしこ、自分の血となり肉となり私たちは年をとる。思うことは変化していき、あるいは時に道を誤ったのではあるまいかという心境に達するときがある。電車の中から見るレールの先に続く長い長い道程のように、私たちは自分を今以上に確実に向上させ、そうして精神を鈍らせないよう生きていかなければならぬ。人は人、私は私。行き着く先の未来が例えあまり褒められたものでなかったとしても、私はそこに悲しみを思わない。もし自分が間違っていたと認識しても私は涙を持ってそこを呈さない。走る、ただ走る。浪人のときに失った自信など大した物でない、これから生きてさえいればいくらでも挽回出来る。そうして長い長い目標の先に何か光るものがあればそれで御の字である。
 川口さんとはメル友にでもなった気分であった。9月の夜の長い日、その日もメールしていた。
「カズ君は浪人して何か得たものはあった?」
そんな文面が来たから私は考えた。川口さんは浪人せず現役で地元の大学へと進んでいて浪人とはどういうものか知らないでいた。
「どうだろう、色々あるよ」
本当に得たもの。それを語るのはまだ時期早々で年が追いついていない。ただ、あのときを経験していなければどうやら今の自分はないのであって、人生の深みとでも言うべきものはしっかりと自分の心に根付いた。いいえ、それは遅かれ早かれ気づくことであって、私は早めに気づくことができたと思われる。浪人など本来したくてするものではない、それはもう大いに明らかだが、一度くらいそういった境地に立ってもいいのだと今は普通に思える。
 友人も得た。切磋琢磨して学舎で共に闘った友は今でも誇らしい。もうあまり会うことも無くなったが、同じ辛い境遇で出会った友というものは強さがあり、美しい。元気にしているだろうか。案じる不安は無用、きっと屈託の精神で必ずや這い上がる。どんな状況でさえあのときに比べればと考えれば地は天をもひっくり返る。何だって出来る、そうない経験である、あんなに世間を冷たく感じ自分は除け者か何かではあるまいかと思う心地はそうはない。浪人した人は必ず分かる心情。分からない人がもしいたらそれは浪人したなどとは言えない。阿呆、大馬鹿者。浪人生はそうして世間から少し離れた、レールを失った電車とさして変わりはない。ゴールがいまいち定まらず、右に行くのか左に行くのか車掌がいなくなるので足下が覚束無くなる。
不安定さはしかし人を確実に強くする。
「私も一度は浪人を経験してみたかったな」
「何かは確かに変わるとは思うけど、無理して経験するのも違うよ」
「どれくらいのものか、味わっておきたいじゃない」
「結構思っている以上に辛いかもよ」
彼女は佐伯君の気持ちを少し理解したいらしかった。佐伯君は元気か、と聞いた。
「うん元気は元気なんだろうけど、最近いやにメールが多いの」
「え」
「いや内容は大した内容のものではないんだけれど、ちょっと変かなって」
危険信号。そうして人は便りがないからこそ元気でやっている証拠だと、先人の人が言っているがごとく。時期はもう9月。予備校内でも次第に生徒は元より先生達でさえ焦り始めるこの時期、まさか佐伯君が飲み込まれるとはあまり思えなかった。ベテランである。周りのヒヨっこの浪人生達からすれば充分に先輩であり、そこになぜか親しみが生じる。その予備校の主、とまで言われる。自分のときもそういう人はいた、そうしてそういった主を見ては「どうしてこんなに頭がいい人が通らないのだろう」といつも首をひねっていた。自分と同じ志望校の主がいて、こんな人と同じ大学を受験するのかと思うと気が引けた。それくらい頭がいい人ばかりで、主、ベテランなのだからそれくらい思われて当然なのかもしれない。ただそんなところで評されるのは悲しいことともいつも思っていた。主だなんてならないほうがいい。その予備校の名物となったら最後、主はいつまでも主を辞めることはできなくなる。主は主でその居場所に心地よさを感じ、いよいよ得意げ、自分の浪人生活を語り出したが最後、戯言を越えてそれは嘆きにしか私には聞こえない。佐伯君もそうなっていたかもしれない。長く同じ予備校にいたわけではないから主とまでは行かないが、自然と話題になる。あの人は何浪だ、とかそういった話題は浪人生ならではだ。そういった境遇に置かれると浪人生という前に人生の先輩として威厳を多少は持たざるをえない。格好もちゃんとしておかないといけない、授業中寝るなどもってのほかで、自習室でさえきちんとしておかないといけない。そういった緊張の中でそうして多浪人生は一年を持たせなくてはいけない。息抜く暇がない、余裕がなくなる。9月辺りになると春先のモチベーションはだいぶ下がり始める。
「もしかしたら佐伯君、成績が下がり始めたのかもしれない」
「私も、そう思う」
「俺たちは何をしてあげればいいのだろう」
まさに親の心地である。浪人生を持つ親というのはどういったものなのだろう。子供は一生懸命に頑張っている、そう思っているだろう。あるいはあまり信用していない親もいる。あきらめの境地にいる親もいる。一様にけれど本当のところは心配している。心配、だがすべきことは何か。見守る他ない、あるいは少しくらいの慰め、気晴らしの相手なら可能だろう。だが闘っているのは当の本人だ。本人が頑張らないでは周りのものはどうしようもない。そうして私は佐伯君の家の近くを通るようにした。偶然を要して会うのならば、幾分かは自分も納得が出来る。そして意外に容易く佐伯君を見つけることができた。






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最終更新日  2008.04.10 06:25:20
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