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細木数子かわら版

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2008.04.10
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カテゴリ:小説
センターが終わり二次試験までは約一ヶ月。泣いても笑っても本当に最後。舞台に立つことのできた佐伯君はその舞台から周りを見回しそうして今までを思い返し、その思いに馳せる暇もないほど勉強に明け暮れていることだろう。ここまで来ておいてたった一つの問題につまずいて、ふりだしに戻るということはざらである。たった少しの間違いが作り上げた作品を壊すのと似ていた。神に少し願った。

 私はふとした拍子で予備校に入ることが出来た。二月に入り私立の試験が始まり、そうして私はその試験の試験官のバイトをする運びとなった。福岡市内のとある予備校で、ここには知っている浪人生、佐伯君がいた。時給も良かったのはあったが何より予備校の臭いを吸ってみたくなったというのが本音であった。バイト当日私は久しぶりに予備校の中へ入った。試験の会場ということもあって浪人生は比較的少なく感じた。けれど確実にその存在は確認出来た。その大学の先生からの説明もそこそこに私は目を輝かせていた。そわそわしていた。まるで新しく引っ越した場所を興味津々に見渡すように、教室の一つ一つからトイレまで必死にのぞき込んだ。漂う臭いも呼吸が少しおかしくなるくらい吸った。これこそ気違いというのだろうと自分を変に感じ、ただそれは私の感じる本能のままに、そうして一切の思いを断ち切るべく行われるべき行為であった。
 受験生のとき試験官にひどくおべっかを使っていたことを思い出す。この試験官に少しでも良いところを見せようとちゃんとして、顔を凛々しくさせ、良い自分を見せようとアピールしていた。私の今ある根元はこうして一つ一つ染みついている。やはりそれは浪人のときにだって染みついていくものだ。むしろそういった体験が今の私を支えているのかもしれない。
教室に入った。現役生、浪人生、混在していた。服装を見れば一目瞭然。そうして闘う目になっているもの、そうでないもの、逆の立場になってみると分かることは多かった。この人は受かる、受からない、と何となく判別も出来た。試験開始一五分前になって私や他の試験官は一斉に試験用紙と解答用紙を配り始めた。この予備校の中でも比較的大きい教室に少し収まりきれないくらいの受験生がいて、その一人一人に丁寧に配った。真新しいその白紙に自分が手がけた何年分かの努力を描くとき。配り終えて私は所定の位置についた。教室の一番前の左端に私は腰掛けた。教壇にはその大学の先生がいた。バイトの試験官は四隅に散らばってそうして始まるのを待った。座ってしばし教壇のほうに目をやり時計に目をやり、しばらくして前にいた受験生に目をやった。そこには佐伯君がいた。

開いた口が塞がらない。試験はまだ始まらない。後数分がひどく長く感じた。佐伯君は目を閉じていた。まだ私には気づいていないらしい。私は自分の今の立場を案じ出来ることなら逃げ出したい気持ちになった。もはや予備校見学などと銘打っている場合ではなくなった。佐伯君が、危ない。
「試験を始めてください」
教壇の先生がそう言った。一斉にパラパラと問題用紙を開ける音がする。すぐにカリカリと答案用紙に自分の受験番号と名前を書き始める。私は正装で、眼鏡も掛けていた。だがそんな装いは見る人が見ればすぐにバレる。佐伯君は合図と共に目を開け鬼の形相で問題に着手し始めた。
私は事前に言われた自分の仕事など何一つ出来なくなっていた。カンニング行為や伺わしい行為をしていないか受験生を見張る仕事があったがそんなことはもうどうでもよくて、ただ穴があればすぐにでも入りたい心境だった。どうしてここに佐伯君がいる。確かに私立理系の大学の試験であったがそんなことは一つも聞いていなかった。滑り止め?いいえ、彼に限ってそんなことはしないであろう、では何か、単なる腕試しか。私は極力佐伯君のほうに目をやらないようにした。そうしてもし試験中に私が今目の前にいると分かれば彼の心理状況はお世辞にもいいものにはならないだろうと悟った。受験生以上に試験官が緊張し始めた。
 佐伯君はそんな私には一向に気がつかずただ闇雲に問題に向かっていた。私立理系であったから受験科目は三科目、午前中に英語があって食事休憩を挟んで数学、理科の構成であった。一つ一つの科目の試験時間が長く理科は六〇分、しかし他二つは一〇〇分もあった。その時間全てを私は彼にばれずにいろというのか。どれほどの戦争よりも明らかな敗北。私は手を膝の上に置いて表面上は良く出来た試験官、しかし内心はガタガタであった。もう開き直る以外方法が見当たらなかった。
 全てを諦め、表面では試験官を務めなければならないから視線を前にやった。一番に佐伯君が目に入る。彼は真剣であった。頬杖をついてその右手を額にやって問題を説いている。視線は完全に試験問題のほう。当然と言えば当然であった。もし仮に私に今し方気づいたとしても問題を説くのをやめる訳にはいかない。私は見つかってもいいと諦め、むしろ視線をそちらに集中させた。難解な大学であったからそう易々とは解けないまでも確実に答案は出来上がっていった。また、数年前をそこに見た。そうして私が受験生のときもこんな感じであったであろうかと思うと胸がつまった。そして私の頃より確実に素晴らしい受験生に見えた。身なりは明らかに浪人生、薄汚れたものを着ていたがそれすらも彼を格好良くさせていた。私は彼に恋した気分になった。その仕草一つ一つに見とれていた。
 最初の英語の試験が終わった。私は我に返り答案用紙を集め始めた。そうして答案を教壇のほうに持っていって、
「次の試験は午後一時からになります」
という事務的な大学の先生の言葉があって受験生は食事休憩となった。そのときふと佐伯君と目があった。お互いぎょっとした表情になり、少し疲れた顔をしていた彼の表情はまた曇った。私はすぐに視線を変えて天にも昇る気持ちで教室を後にした。
事務室に戻り、少しの作業をした後私たちも食事ということになった。携帯が鳴った。
「下で待ってる」
彼からのメールであった。処刑が始まる、と私は覚悟した。すぐに下に降りた。
彼はエレベーターの前にいて首で外に来るよう指示した。私は無言でついていった。外に出て彼が言葉を発した。
「どうしてここにいるの?」
おっしゃるとおり。
「試験官のバイトでここに来ていたんだ」
「そうだったんだ。いや、驚いたよ」
彼は苦笑しコンビニのほうに歩き出した。
「俺のほうも驚いたよ。まさかいるとは夢にも思ってなかったから」
「ちょっと腕試しにね。後は、滑り止めかな」
「そうだったんだ。ごめんね、何か」
「何で謝る必要があるのさ。試験中気づいたらちょっと危なかったかもしれないけれど」
「いや、でも、ほんとごめん」
私はただ謝った。そして今はまだ試験の最中。何も言うまいと強く自分の中に堅く誓った。それだけはどうしても彼のためにも守り通さねばならないことと思った。
コンビニに着くと彼は手慣れたようにすっと弁当を手にした。
 その後、無事に試験は終わった。私は相変わらず彼と対峙しなければならなかったが彼は何ら変わらず、むしろより一層輝いて見えた。受かる人間、受からない人間に分別するならば確実に彼は受かるほうの人間に見えた。彼を観察して私はお金を得、少し変な気分になった。私はその日、彼と一緒に帰ることにした。
「どうだった、今日の試験」
もう聞いて良かろうと思った。彼は清々しい表情をして、
「横槍が入ったときはどうなるかと思ったけど、案外気にならずに出来たよ」
「本当にごめん」
「いいって。そんなの謝ってもしょうがないじゃないか」
「それもそうだけど」
「それより、」
彼は少し笑って、
「久しぶりの予備校はどうだった?」
「うん、何だか変な気分だった」
「ははは」
久々に出た彼の本当の笑顔を私は誇らしげに眺めた。

 冬の寒さは煌々と何かをゆっくりと輝かせていた。歩く道には雪が混じっているときもありそうして決戦のときは確実に近づいていた。
「試験日はいつ?」
「来週の月曜日。もう後少しよ」
「試験は現地だよね、当然だけど」
「ええ、東京ね」
彼の受ける大学は東京にあった。
「一人で行くことになるの?」
「私もその日仕事があるし、ついて行くのも少し違う気もするし」
「俺もさすがに今回ばかりは行ってもどうしようもないかも」
「それでね」
彼女には何か企みがあった。こういうことに関しては女性のほうが何枚も上手だ。
「試験の前日に現地に行くんだけれどちょっと激励しようと思ってるの」
佐伯君はその後も過ぎ去った日々を無駄にしないために必死に勉強していたらしい。私が試験官をしたその大学も難なく受かり、後は国公立の二次試験だけとなった。私は彼の気持ちは幾ばくのものかと考えた。ここまで歩んだ道のりは決して平坦ではなかろうと考える。青春の時期はそうしてそのほとんどを予備校で過ごすことになり、流行だか世相だか彼には聞こえていなかったであろう。ただ後、ほんの一押しである。
試験会場で彼を偶然にも発見し、私は深く心の中で感動していた。軽蔑やらは一切間違いであり、清く透明な彼がそこにはいた。たった数時間のとき。これだけのために一年間頑張ってきた。ここに全てを集結させなければならない。それは能力というよりもその人の執念の差である。その試験にかける思いの強さが結局のところは鍵を握る。絶望を何度も経験してきた彼だからこそ、その難しさを誰よりも理解していて、誰よりも強く思っていることであろう。
 予備校は二月に入ると意外としんみりする。惜別の念があるのか何なのか、浪人生を包む心はどこか落ち着きすら感じさせる。周りでは私立に受かったもの、センターで高得点を取って安心しきっているもの、皆それぞれの方向性がぼんやりと見え始める。授業で言う先生の一言一言も、もう後何回この言葉を聞くであろうか、というやはり惜別の念は少し交じる。私は私立の大学であったからセンター以降次々に試験があった。国公立を目指す人口がやはり多いからか、少しの疎外感、少しの優越感を感じていた。実のところあまり二月は思い出が薄い。少なくとも予備校ではそう多くは感じなかった。そんな季節に佐伯君は何を思って勉強していたであろうか。
 私と社会人は空港にいた。
「彼、別に見送りなんていいっていったの。そんなことないでしょうに、ね」
「それは男の照れだよ」
「そんなところで格好つけてもしょうがないのに」
二人は佐伯君には内緒で見送りに来ていた。一言、彼を勇気づけてやりたかった。東京行きの飛行機はどんと待ちかまえていた。
「遅いわね、何しているのかしら」
「13時の飛行機だよね?意外と危ないかも」
「もうこんなときに限って、何をしているのかしら」
「あ」
少しばかりの荷物を肩にかけ、そうして見覚えのある服装でその人はゆっくりと搭乗口に向かってきた。その歩を確かめるかのごとく私には見えた。
「こんなところで何しているの」
「そういう言い方はないでしょう?せっかく見送りに来たのに。ほらカズ君だって」
私は彼と目があった。高校の頃のような凛々しい彼がそこにはいた。
「やれることはやったさ。もう後は本番で出すだけ」
「分かってる。しっかりな」
「ああ」
そう言うと彼は彼女と握手し、私と握手した。握った手は大きかった。
「じゃあ行って来る」
そう言うと彼は搭乗口の中へ入っていった。私は叫んだ。
「頑張って来いよ!全てを、今までの勉強した全てを出してこいよ!お前ならきっと絶対に受かるって俺たちは信じているから!絶対お前に、春は、春は来るから!」
彼は右手を挙げてそれに答えた。






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最終更新日  2008.04.10 06:34:03
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