|
カテゴリ:Simple Pleasures
午前中に仕事関係の来客があった。この人がここに来たのは二度目だったが、前回も今日も、書斎で話をしながら視線が私を通り越して壁に向かっていたのに私は何となく気付いていたのだが、今日ご本人が切り出してくださった。 「あのサインのない絵は誰が描いたものかご存知ですか?」 「はい。あれは私が描きました。サインはキャンバスの裏に」 「そうでしたか。あの絵を譲って頂くことはできませんか?」 あんなつたない古い絵に、と恐縮してしまった。 お恥ずかしいので控え目に・・・。 この、野生のアジサイの絵はとても幸運だとずっと思っていた。随分と昔に描いたもので、実はフレーミングに出している最中、私の知らないところで工房の店主が店のウィンドウに飾っておいた1週間の間に3人の買い手が現れたという話があったのだった。 「君のあの絵を欲しいと言う人が3人いるんだけど」 有難かったのだが、丁重にご辞退申し上げた。実はこの絵はその昔、婚約したばかりのセバスチャンにプレゼントする為に描いたものだったからだ。でもそれだけではない。私は自分で描いたアジサイの絵を売ったことがない。アジサイは、私の記憶の中では初めて描いた油絵で、最初の先生は父だった。5歳だったと思うが、楽しかったその夜のことを今も鮮明に覚えている。アジサイの絵に買い手がつくと、父との思い出が薄れてしまうような気持ちになったものだ。そうして時折気が向けばアジサイを描き、今では大変な数になって母が「置く場所がない」と嫌がっている。そのうち何らかのかたちで手放さなければならないのだろうが、父が年老いていくことを考えたら尚更できそうにない。 生きている時間が長くなればなるだけ思い出の数も増えるのは当然で、それをどのように保管するかはなかなか重要な問題だ。形のないものなら、例えば日記に書いておくとか心の中に留めておくとか?場所は取らないけれど忘れてしまったらと考えると惜しい気がする。ただ、思い出の質にもよるだろう。楽しいだけの思い出ならば、いつも目の届くところに置いておけばハッピーな毎日を過ごせそう、でも今の私のように、大切にしたいのに思い出すには切な過ぎる、なんてのはどう保管すべき?いっそのこと捨ててしまえれば楽だけど、それができたらこんな思いはしていない。 もしも、もしも切ない思い出が絵になったらどうだろう?いつも見えるところに置いておかれるだろうか?描いてみたい気もするが、勇気が出ない。それに第一、絵を描きたいなら、やはりあの国を訪れなければならないのだし。どう考えても暫くは保留。 それにしても、NYの自由な感性には学ぶべきところがたくさんある。私は画家という肩書を持ったことはないけれど、これまでに油彩と水彩の何枚か(水彩は、ある施設に飾るのだという話でまとめて引き取られた)が人手に渡った。人によっては、身につけるものも芸術も、あるいは付き合う人に対してだって「ブランド志向」を持ってしまいがちだが、私はNYでそんな人との交流は記憶にない。New Yorkersの誇るべき成熟した魂は私が彼等を大好きな理由のひとつである。 ・・・何ならペンから絵筆に持ち替えてみるかな?なんちゃって。 今夜のシャトー(Ch. Pichon-Longueville-Comtesse De Lalande 96)は昨夜よりまろやかだ。 simply #nowplaying お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 11, 2011 02:05:13 AM
コメント(0) | コメントを書く
[Simple Pleasures] カテゴリの最新記事
|