|
テーマ:新撰組!(305)
カテゴリ:新選組!関連
佐藤家の本陣は、元々は現在よりも広い土地に設けられていて、現存の(あたしたちが今観ることの出来る)建物に更に広い客間が2室もあったという。
中でも一番豪華な拵えの客間は、今は別の場所へ移設されてしまって居るので、一体どの様な施しがなされて客をもてなしていたのかは判らない。 それでも、残っている他の客間の、華美ではないがとても丁寧でさりげない細工・意匠を観れば、多摩の田舎とは思えない品格と、多摩らしく自然味溢れた流儀を併せ持つ、暖かくて居心地の良い部屋であったろうと思える。 面白い話があった。 表玄関の框前、板敷きの、偉く変な場所に、ひょうたんが掘られていた。 何故こんな場所に中途半端な飾りがあるのかと訊ねると、ガイドさんは、もう一枚の、やはり妙な位置に整えられている小さな窪みを指して答えた。 「そっちがひょうたん。こっちはくるみ。用いる材木に空いていた節穴を、飾りで隠す為にはめ木で細工してあるのです」 もしかしたら本当に贅を尽くすと、こんな節のある木は使わないものなのかもしれないが、それでも、昔の人の粋な計らいに感心した。 同時に、こういう粋な事の出来る余裕が、佐藤家にはあったのだという事を知る。 「細工は他にもあるんですよ。庭に面した縁側(廊下)に。昔は、庭にひょうたん池があったのです。そのひょうたん池が取り壊される事になった時に、寂しかろうと、池と同じ形のひょうたんを大工さんが細工してくれたのですって。ほら」 なるほど、客間に接する板の上に、なんとも愛嬌のあるひょうたんがへばりついている。 その客間。 市村の居た部屋と隣り合わせているのだが、その両部屋を分ける欄間は透かし彫りが四対並んでいる。 市村の居た部屋の、玄関に向いた側の欄間は麻だったが、こちらは四季それぞれの木や草花と一羽の鳥が描かれたものだった。 当然、春は梅にうぐいす。 床の間と床棚の間は、先の麻の欄間と同じ透かしを用いた飾りがある。 これは趣向をこらしたもので、庭側から見れば一枚の麻模様。市村の部屋側から見れば、庭からの光の加減で、更に六角の透かし模様が浮き出る細工が隠れている。 床の間の反対側の壁の柱下方には、「川登りの鯉」様を現した彫り細工が、これも華美な彩色など一切ない、原木のままの色味で隠されていた。 そうそう、忘れていたけれども、年貢や手続きの受付を行っていたという玄関(現在本陣内を見学する際受付となっている場所)の、上がり框にも、雀の細工で透かしであった。一緒に描かれていたのは荻かな?と思ったが、聞かずに済ましてしまって確認は出来なかった。 各部屋の釘隠しも面白い。 本陣と村の総代としての作業を行う表玄関近くの部屋には菊菱、そして、客間にはこうもり、家族の部屋には夫婦うさぎ・・・・・。 家族の部屋と客間の間を仕切る戸板は、樹齢百年近くの木を用いた一枚板が使われている。 外の様子は?と、訊ねる。 街道に面して門が立ち、かつてあった広い庭には耕具を置く小屋の他に、簡素だがきちんと稽古の出来る道場があったそうだ。天然理心流の門人は、ここで勇や塾頭の総司、歳三達の指南を受けたという。 農耕を助ける馬は対面の現在図書館になっている場所の、高札場に併設された厩に繋ぐ。 高札場へ示す地域の事項や幕府からの通達は、佐藤家の仕事でもあったのだから、恐らくこの高札場も厩も佐藤家で管理していたのだろう。 「昔、この地域の水田に必要な水を、佐藤家がひいた。水路を整えた事でこのあたりは天領としての勤めを果たすことが出来たのです」 農業が日本の経済産業の全ての元であったかつての日本では、水を制し、手に入れる事が出来るか否かは、とてつもなく大きな意味を持っていた。 だから、用水の確保と治水を果たした者の功績は、それこそ今の社会では何に置き換えて例える事も出来ない程の偉業である。 佐藤家の始まりが何であったかは判らないが、幕末の頃、この名家が日野の自治体の中心として責任を持っていた訳のひとつに、この水路事業の達成があった事は間違いないだろう。 土方歳三、そして井上源三郎は、この、日野の恵みを生活の中で得てきた人物である。 少し場所は離れるが、近藤勇もまた、同じ多摩の上石原村の豪農島崎家の子であった。 日野も上石原村も、江戸幕府直轄の領地、即ち天領であり、幕府の経済的基盤をなすものであった。 あたしの様な現代人にとっては、農民は武士よりも貧しかったと思いがちだが、生半可な録しか持たない、それで居て、常に藩命に従順でなければいけない武士に比べると、天領というのは割りと暮らしやすい身分の者も少なくなかったとガイドさんはいう。 「天領は割りと保障(優遇)されていた部分もある。管理されているとはいえ、それぞれの自治体単位で取り締まる事柄も多く、風紀は穏やかなものであったそうです。本拠地御江戸に近い事から、情報や文化の伝達も早い。だから、蔵持ちの総代や豪農ともなれば、藩管理内で動く他の地域の農民や、食い詰め浪人なんかよりもゆとりがあったのではないかと思います。その代わり、何かの時には幕府の恩恵に報いるという責任も人一倍感じていたのではないでしょうか」 土方歳三は、いわずと知れた、佐藤彦五郎の義弟である。 (彦五郎の母もまた、歳三と血の近い土方家の出である) 土方家そのものも、石田村の豪農(御大尽)であった。 武士になりたかった歳三は、農民という身分を悔しがったが、誠衛館に入るまでの彼は、まともな仕事にも就かず、佐藤の家でのんびりと自分の出自に苛立つ余裕があった。 そうして怠惰に過す部屋は田舎なりに優雅で、陽のあたる景色に満ちていた。 「ぼんぼんやん」 一緒に本陣を訪問した友人たちと思わず笑ってしまった。 うくひすや はたきの音も つひやめる この有名な句は、暇を持て余した歳三が彦五郎の家の客間に寝そべって、なんとはなしに欄間を眺めていて思いついたのかもしれない。 おのぶ姉さんがハタキを手に掃除していると、この働きもしないでぶらぶらしている弟が、ひらめいたとばかりにいそいそと書き留めはじめる。 おのぶは呆れたと溜息小言を吐いたろうか。 それとも、「うるせいやい」と口応えながらもそこをどかない弟を追い出さずに、そのまま放っておいたのだろうか。 何にせよ。 日野本陣 佐藤家は、幕末当初の満ちた暮らしを窺わせ、今も街道沿いに建っている。 ------------------------------------------------- 文中の各意匠・細工について、写真撮影を許可して頂きましたが、張り紙に寄ると個人の掲載に関しては許可しないものと思われますため、残念ですが今回は掲載を控えさせて頂きました。後日確認の上、可能であれば改めて掲載致します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 29, 2005 01:13:18 AM
[新選組!関連] カテゴリの最新記事
|
|