不器用で未完成だったから
ある小説家の全集を手にとってページを開いたら「まえがき」みたいなところに興味深いことが書いてありました。全集に収録されるに当たって以前書いた作品に手を加えた、というのです。文壇の世界ではそれが普通なのかどうか僕は知らないけれどその小説家曰く「当時表現しようとして十分に表現できなかった事柄を幾分なりとも明確にすることが目的」だったそうです。そりゃないよなあ、と僕は思ったわけです。一度完成して世に送り出した作品を、良いものとして仕上げようとする気持ちは分からないでもないけれど当初の作品を愛している読者は何となく裏切られたというか未完成品を掴まされたというか、そんな気持ちを抱いてしまうのではないかと。しかし、その小説家は続けていました。「今、手を加えてすっきさせるよりは、不透明なままの思いを伝えるほうがいいのでは、下手にしか不透明にしか伝えられないこともたくさんあるのではないか」と。考えすぎかもしれないけれど、僕にはそれが人生そのものに思えたんですね。僕らはどんなに前向きに生きていても、今の自分は過去の延長線上にある。1か月前、1年前、10年前に「ああすればよかった」と思うことはいくらでもある。「あの時あんな風に言うべきではなかった」「あの時の選択は間違っていた」「あの時うまくやっていれば今ごろこんなことにならなかったのに」そう思う自分は、過去の自分より時計の針が進んだ分だけ成長した自分であって過去の自分が選択したことは、少なくとも当時はベストだったに違いない、と思うんです。確かにあの時の自分は、今よりも無知識で不細工で不器用で未完成だったけれど、無知識で不細工で不器用で未完成だったからこそできたことが無数にあって、今の自分があるのではないかと。無知識で不細工で不器用で未完成だったからこそ伝えられた何かがあったのではないかと。僕らの過去は、全集に収録されるからといって簡単に書き換えられる小説ではありません。書き換えたい事実があったとしても、それはそれで当時の自分が選択したベストだったんですよね。僕は別に過去にこだわって生きているわけではないけれど10代の頃に思い描いていた未来・自分の将来像と現実は、やはり少し、いや随分とズレてきているんですね。そのズレ始めた原因は何だったのか、今からでも修正は可能なのか、そういったことを検証するために過去を振り返ることが多かったのですが、それよりもやっぱり未来の設計図をしっかりと書くことが大事なんですね。過去は過去、完璧ではなかったけれど自分が選択してきたことだからいいじゃないか。そろそろ人生の折り返し時点が近づいてきたことだし、ここでひとつ真剣に未来の設計図を書き直してみるか。全集を読みかけて、そんな気分になった一日でした。