カテゴリ:うつくしいもの
道路から窯の横を通って家までの道も草が生えて、歩く部分だけでもと思って昨日少し草をむしった。根っこから引き抜いたその草をまとめて積み上げておいたのを今朝見れば沢山のツユクサが咲いている。もちろん今までも日々咲いていたのだが、土を失ってなお今日もちゃんと咲いている花に心が留まった。自分が、郵便屋さんが、そして水道検針の人や宅急便や友達や来客や全ての自家を訪ねてくれるひとが日々踏みしめるところは土も踏み固められて草も薄くなっているがまわりからは絶えず伸びてきた草がかぶさってくる。他の人がしばしばそうするように丹念に家のまわりの草を刈ることはしないが、それでもいくらかの草を刈ったり抜いたりすることは仕方がないのだ。 一輪を小壺に差して眺めてみれば、こんな小さな花なのに明かりをつけない暗い家の中でも外にある時以上に鮮かな青い世界をくっきりと区切っていることが思い掛けない。そういえば友禅染めの下絵が描かれるのは、たしか嵯峨のほうに多くあると聞いたような気がするがこれはもっと大きい花を付ける種類のつゆくさの花の青い汁なのだそうで、つゆくさの青は水に流せば跡形もなく簡単に消えてしまうのだという。昼になり陽が昇れば小さく萎れてしまうこの儚い花の、その色もまたそういう質であるというのはいかにも似付かわしいことのような気がする。 写真の花器は17世紀頃の薬入れと呼ばれているデルフトの小壺と漆のようにも写っているのはたぶん昭和頃のものだろうか鉄の縁が付いたなんだか判らない銅板。デルフトの薬入れは今ではぐい呑みに転用するひとが多くてそれなりの値段が付いているが、自家にあるこれは以前に少し買い物をした時に負けてもらった分くらいで買うことが出来た極く安いもの。その時にはいくつもの同じような薬入れがあった中からよりによってとっておきにぼろぼろのそれを選ぶのかというような顔をされたのを思いだす。しかしなんといっても火度不足気味で焼き上がりも甘く、傷気も多いものだがそれだけに花受けはむしろ良いような気がして、夏になったら一輪のつゆくさでもというつもりで求めていたものなのだ。 銅板のほうはこれも他日花の器展で大変気に入って求めたもので、それ以来ずっとテーブルの上に出っ放しで灰皿の受け盆にしていたもの。自分としては大変気に入っているので全く不満はないがこちらはこんなものに普通のひとはなかなかそれだけ出さないだろうというほどに少し高かった。燃えないゴミの捨て場に落ちていてもめったに拾われることがないようなただの銅板である。こんなものを見つけ出してきてきっちり評価を付けて展覧会に並べた道具屋さんはたいしたものだと感心する。 関係ないがこういう過去に書いた文章からどんどん引用してリンクが付けられるのはMacのspotlightという検索機能のおかげで、Windowsにも同じような機能があるかどうかは知らないが「デルフト」とか「花器の会」とか「銅板」とか思い出すキーワードを入れれば一瞬でMacの中のメールの文中や写真に付けたタイトルなどありとあらゆるところから見つけ出してきてくれるのである。自分の場合は楽天ブログに書いた日記はそのままメールとして全て保存しているので日付と共に全文に簡単にアクセス出来るのである。楽天に準備されている検索機能は残念なことに探し物が見つかることはむしろ例外でほとんど役に立たない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.08.31 23:02:30
[うつくしいもの] カテゴリの最新記事
|
|