カテゴリ:うつくしいもの
この綺麗なパプリカは地元の朝市での収穫です。近ごろこういう農家の直販物を買える機会は個人がしている軒先の無人販売から大小様々な朝市までいろいろとあるが、この丹波高原朝採野菜市はなかでも規模が大きくて品数も多く最近気に入って時々出掛けています。新鮮な野菜のうつくしさというのはなかなかたいしたもので、こういう採れたてのものを選取り見取りに安く買えるのはありがたいことだし、それに時期ごとに旬のものが移り変わるのを見るのも、また同じ野菜でも出している作り手ごとに大きさや姿にも特徴があってこういうことを見ながら買い物が出来るのはなんとも楽しいのです。 国道沿いで街からの便利もよい場所であるうえに定期的にしっかりと運営されているためか早めに行ってもずいぶんな賑わいで沢山の人が開場を待っています。こうして直接田舎と都市とが、生産者と消費者とが繋がる機会があるというのは双方にとってもよいことではないかと思うのです。農業問題に特別な関心も見識も持っているわけではありませんし何も実情について詳しく理解しているわけではありませんが、耕地面積にも恵まれない丹波ではその多くは小規模な農家ではないかと思われます。またこうした農業が続いてゆくのはなかなか難しい問題があるようにも思えます。しかし農家が補助金や兼業ではなく農業自体で成立するためにはこれは非常に希望のあるモデルではないかという気がするのです。ある種の伝統芸能や民芸やそういうものはすでに普通の意味での一般からの需要を失ってなんとか極く少数の覚者とも言うべき人たちの志で守られている場合も少なくないのですが、これはこれで尊いことに違いなくてもそういうもの以上に多くの大衆が支えてゆかねばならない農業の場合には需要に結びつかないところでこれを守るのはどうしても無理があるでしょう。農業がその仕事の歓びと同時に充分な益を産み出す仕組みがなくてはどうしても発展はありません。 いつもの悪い癖でまた話があらぬ方向に飛んでしまいました。不相応に農業問題を語るよりは野菜のうつくしさについて書きましょう。 パプリカが味のほうで特別に大好きというわけではないのですが、この綺麗さに魅かれてついつい食べたくなるのです。これだけつややかで色彩の鮮やかな野菜は他にないのではないかという気がします。前に筍を籠に入れた時にも思いましたが、こういう綺麗な野菜をお気に入りの器に盛りつけることと活け花の間にはいかなる違いがあるものでしょうか。 今日の器も朝鮮のもので、特徴的な高い高台を持つ祭器です。儒教のことを知りませんが孔子廊とか祭壇に何かを備えるために用いるためのものであり、本来人が食器に用いてよいものではないのではないかと思います。しかしながら桃山時代以後に沢山移入された朝鮮の茶碗の中にもいくつもの祭器が混ざっており、彼の地での用途を知ってか知らずか我が国ではこれが茶に用いられました。茶は人と人との関係ではあっても本来は人天不二の世界のことである以上はここには不都合は無いのかもしれません。茶人たちとおなじようにこの天地の恵みであるパプリカのうつくしさを眺め自分のみならずここを御覧になる沢山の方々と歓びを分かち合うにあたって祭器を用いるのは実はそれほど的外れではないのではないか、と言ってしまっては少々強引過ぎるでしょうか。古器を眺め用いて往時の陶工たちの仕事に想いをはせる時、人は彼らになにものかを献じていない訳はないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.01 06:35:05
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