カテゴリ:うつくしいもの
陶器というのは割れて捨てられてしまっても窯跡から、あるいは住居の跡や井戸や港や川底などからそのまま出てくることがしばしばあります。作られた当初はその時々の生活用具として作られた器の類がそういう意味では簡単に時代を越えてメッセージを伝えてくれるのは不思議なものだという気がします。 関西でも淀川からは当時の渡し舟で使われたと言われるくらわんかの類が今もしばしば発見されるようですし、いつだったか大水の後でかなり大きな須恵器の壺が見つかってニュースになったことも覚えています。以前に小鹿田の窯へ行ったときもいつの時代のものかは知りませんが川底に石に混ざっていくつもの陶片が沈んでいるのを見て、こういうのもいつか誰かが大切に拾い上げるのだろうなという気がしたものです。 写真はやはり縁あってイギリスから届けてもらったロンドンのテムズ川で見付けたというスリップウェアの陶片です。先日のものよりもさらに厚手に作られたこれも素敵なもの。やはり大きな角鉢の一部ではないかと思われます。紋様やかたちはよく見る典型的なものですがこれにはこの手のスリップウェアとしては非常に例外的なことに外側の下半分くらいまで釉薬が掛けられています。発掘もののの中には今では伝世された品には見当たらない思い掛けないような多様なものがまま見受けられますが、逆に言えば数百年後まで無事姿を残す場合がむしろ極一部の例外なのだとも言えるのです。それにしても実際に手にして感じることは「スリップウェアとはオーブンに入れて鍋のようにも使った低火度釉のやきもの」ということからイメージするよりはよほどしっかり焼締まったわりあい堅くて頑丈な陶器であるということです。 こういう小さなかけらからでも十分に全体を想像して楽しむことが出来ます。佛教美術などの場合はたとえばすでに失われた佛像の手だけとかあるいは蓮台の一部とか、紺の紙に金泥で写経されたもののほんの数行の断簡とかそういうもので全体を想いその時代の空気を感じるような観賞は極あたりまえの態度ですが、いまだにやきもののコレクターは小さな傷やひびの無い完全品ばかりを尊ぶような傾向も無きにしもあらずです。しかし古器を楽しむ場合に完全であることがどれ程大切だろうかとはいつも思います。もちろん今ある姿を次代に伝えることは大切なことであるのは言うまでもないとしても、割れたり傷のあるものはそういう時代を経た姿をそのままで楽しめばいいし、また万一壊してしまった時には日本には漆継ぎなどの素晴らしい伝統的な修理方法があります。壊れすぎて生活の中で使いにくくなったものはもう十分働いてきたものとして後はただ手に取り眺めて楽しむというような観賞の用に棚上げしてよいのだと思っています。時代を経てすでにあまりに貴重になってしまったものはやはり特に大切に守るべきもので、時折気を付けて使うのはいいとしても気楽な普段使いには向かないかもしれません。日常の暮らし、特にリラックスすべき食の関連であまり気を張らねばならないのは好ましくないような気がするのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.19 12:00:14
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