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2007.11.01
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カテゴリ:思い出しながら
 10月24日のこと、学校を出て以来ずっと北海道に住んでいた母の兄が亡くなった。すでに高齢の彼の兄弟にとっては北海道はいかにも遠いので京都からは自分と他に二人の従兄が葬儀に行くことになった。元気な頃から一度遊びに来るようにと誘われていたが出不精の自分はとうとう機会を逃し続け、とうとう伯父の葬儀が北海道への初めての機会となってしまった。
 式で配られた略歴によると同志社の神学部を出た彼は開拓伝道で1957年に北見望ガ丘教会の牧師として渡道したあと、1962年に北星学園の宗教主任として迎えられ、その後73年から91年までという随分長い間校長を務めていたとある。そんな訳で自分の記憶にあるのは遠い北海道で校長先生をしているおじさんであった。ぼそぼそと話すおじさんが校長先生をしているというのも子供心に朝礼で話をする自分の学校の校長と比べても比較的若かったこともあるのかどうにもしっくり来ないような気がした。
 退職してからは東札幌教会の牧師を務め、またキリスト者としての立場から平和運動をしていたようで学校時代はもちろん晩年まで様々な用件でしばしば京都に来る機会も多かった。そういうときは自家で泊るかあるいはホテルに泊っても旅程の内一泊は自家でということが多く、学校から帰ってくると伯父が来ていることはパイプ煙草の独特の匂いで玄関ですぐにわかったのを思いだす。
 当時としては貧しい漁村の漁師の息子が大学へ行くなどということは異例のことだったに違いないが、これには両親とともに彼の兄の相当の覚悟が実現させたものではないかと思う。北海道の伯父は次男であり、不幸なことに早くに亡くなってしまったが長兄は丹後の生家を継いだ漁師で子供心にもいかにも鮮やかな印象を残した人だった。北海道の伯父はいわゆる出来のよい子供であった訳ではなく、誰もが兄のほうが段違いに冴えた人であったと言う。子供の頃は毎年夏休みに母の帰省に連れられて丹後で数日間を過ごしたが、家の前がすぐ砂浜であるその家にはちょっと例えていうならば道場のような凛と澄んだ緊張感があった。情も深い人であったと思うが同時に極めて明晰で知的な人でもあった。この丹後の伯父は極めて優れた資質の人であったはずで、長生きしてくれれば自分などももう少しましな大人になったのではないかという気がする。生前その父母や丹後で早逝した兄弟のための文集を『海辺の人びとへの追想』という小さな本に編んで残してくれたことは大人同士として知ることがかなわなかった血縁を知るという意味でも自分にとってありがたいものとなった。北海道の伯父はこの兄とはまるで逆の気質の人で兄が間違いや誤魔化しは正さないではおかないというふうな厳しさを持っていたのに対し、相手を清濁もそのままに受け入れてしまうというような意味ではより大きなところもあったのではないかという気もする。少しも気難しいような人ではなかったし威圧感のある人でも無かったが、しかし子供相手にも基本的に無口なのであるから挨拶をした外にたいして話した内容も思いだせない。自家にいても母と田舎の親類の話などしていた印象しかないから、おそらく父にしてもやはり同じような感じではなかったかという気がする。伯父は年に一度くらいは家に来てくれたと思うが、子供の頃の自分にとっては嫌いではなかったが遊んでくれるというふうな相手でもなく特別嬉しかったような気もしない。
 ところが自分もやや大きくなってからはしばしば本をくれた。それは飛行機の中などで自分が読んだものであったりあるいは伯父自身の著書であったりして自分向けに選んでくれたという場合は多くなかったように思うが三好達治や宮沢賢治の詩集や吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』などは自分向けに選んでくれたものではなかっただろうか。また自分の本棚にも目を通していたようで壽岳文章と住井すゑの対談集などを「借りたよ」と言って読んでいたこともあった。そんな訳で大きくなってからのほうがいろいろと話したことは多い気がする。しかし学校を出た後は自分も家を出ていたし、信仰や民主主義や平和運動やそういう話しをゆっくりする機会がなかったのは残念なことだった。
 一度やきものの展覧会を見に来てくれたこともあって、工芸や手仕事にはたいして関心はなかったようだが「あんがい高いもんだね」などと言っていたことも思いだした。それと同じ頃だったか骨壷を作ってくれと言ったことがあった。その時までは身近に置いて花でも入れるという。何度か大きな手術をして体力の衰えを彼自身感じていたのかもしれないし、また水上勉が好きだったので氏に倣ったのかもしれないとも思ったが何となく死を待つことのような気もして気乗りがせず、何度かロクロでかたちはしてみたもののとうとうそれを焼くことは無かった。荼毘にふして白い骨になった伯父を親族で普通の青磁の骨壷に入れるときにやはり作っておけば良かったかなという気もちょっとしたが同時にこれでよいのだというふうにも思った。
 
 生前大いに活動した人だけに札幌北光教会で行われた前夜式も告別式にも大勢の人が参加した。アイヌの衣装に身を包んだ方もあった。たいへん多くの人に愛された生涯だったのである。式やあるいは控室などで知人や家族などによって語られた人前で声を荒げたことなど一度も無かったなどというような回想はたしかに自分の印象と同じく穏やかでもの静かなひょうひょうとした伯父の姿であったが、平和運動の同志の方によると晩年自ら率先して身体を使うことが出来なくなってからはなかなか綿密なプランを立ててあれこれとことん指示されたとのことでこれはちょっと知らない側面であった。彼の気質を思えばキリスト教的人道主義から平和を説いたのであろうからそう激しい運動はしなかっただろうとは思うが、それでも穏やかな中にも非妥協を貫いたのだろう。また当初は誰一人ミサに来る人も無く、貧しく充分な暖房も出来ない寒い教会で新妻だけを相手に二人きりの説教が続いたというふうなことはいかにもそうだろうというふうな印象的な話しだった。ここ数年悪いとは聞いていたので気持ちの中では覚悟は出来ていた。その風貌や話しぶりがまざまざと思い出される。人の生涯は肉体が燃えて無くなればそれでお終いというものではないという気がするので寂しくはあったが悲しみは無い。






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Last updated  2007.12.06 23:51:59
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