正月
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」 一休のこの有名な和歌について子供の頃には「めでたくもありめでたくもなし」というのが正月の世間のなんとはなしに浮かれた気分と、そして冥土に行くことすなはち死とを対比して詠んだものだと思っていた。これだって普通の人は日常であまり気付かない刻一刻と確実に死に近付いて歩んでいるという人生の有り様を鋭く見ている一休の凄さを感じるが、死というそのこと自体をめでたいことだとみなし煩悩の多い現世を歩む姿のほうをめでたくもなしと表したのではないかと思えばまた少し違った歌のように思えてきます。 ほんとうは門松は冥土の旅の一里塚というのが現世の有り様そのままもので、そのこと自体をめでたくもありめでたくもなしと詠んだというのが本意ではないかという気がするのです。ひとの生涯はめでたいとかめでたくないとかそういうものではない不可分の性であると、このように読み解くのがいちばんこの禅僧の和歌としては自然な気がします。 「木喰も冥土の旅に連れもなし 戻りて見れば塔婆一本」 もうひとつ、江戸時代の作佛聖である木喰上人の和歌に似たものがあります。こちらもやはり連れもいない一人の寂しさを詠んだものではなく、ひとの生涯の実相を詠んだものだと思います。日本全国を廻国しながら一千体を越える彫刻を残して入滅した木喰の生涯が卒塔婆一本というのは自らの死が近付いた時に「一代の聖教皆つきて南無阿弥陀佛になりはてぬ」と全ての書籍を焼き捨てた一遍上人の姿に重なります。「木喰もいづくのはての行きだおれ いぬかからすのゑじきなりけり」 木喰はまたこういう歌も残しています。いつかどこかで死んだ時にはその亡き骸は犬か烏の餌食であるというのは現代の日本の暮しからすれば何か凄い感じはしますが、野宿もしながら全国を歩き廻っていた老僧の生涯にとってはあたり前の実感を伴ったことであったでしょう。 どこかで行き倒れたら後は犬か烏に喰われてお終いというのはなかなかその心情としては自分にもしっくりと来るものがあるといつも感じます。日本ではすでにほとんど土葬も無くなっているのではないかと思いますが、自分の小さい頃に亡くなった母方の田舎の祖母は土葬でした。これは大きくなってから聞き知ったことですが棺を村から外れの墓地まで引くための白い綱と死に装束は自らきちんと準備していたというのは立派なことだと思いました。貧しい漁村の無学な漁師の妻として丹後の海辺で生涯を過ごしたその人の亡き骸は棺に納められてやはり海に向きあった墓石の前に大きな穴を掘ってそっと埋めました。去年の春に益子に行って早朝道に迷っているときに見た墓はやはりその人が生前守り続けたであろう田んぼに向かって在りました。こういう墓に入るというのはなんとも幸せなことのように想われてなりません。 丹後の祖母とはどちらが先だったでしょうか、それほどかわらないころに亡くなった父方の祖父は京都のとある老舗のお茶菓子屋でしたので街中であったため荼毘にふした後のお骨を小さな白磁の壺に入れて墓に収めました。子供心にはたとえ死んでも高熱の火で焼かれてしまうのは恐ろしいことのように思われました。命は尽きてもそこに在った亡き骸が数時間の後には白い骨になるというのはなんとはなしにたまらないという気持ちがしたのです。火葬にされるよりは土葬にしてもらって土の中に埋められて朽ちてゆきたいと思うようになりました。 十八歳の頃に出版された当初に買った藤原新也さんの『メメント・モリ』という写真集を見ればガンジス川のほとりでいくらかの薪とともに火葬にされるインドの人たちの姿が写されていました。この正月に藤原新也さんが丹後の村を訪ねて写真を撮っているテレビ番組を見て、久しぶりにこの本を開きました。日本の焼き場のように窯に入れて重油で焼くのではないのでこんなやり方ではもちろん白骨になるまで焼き切れる訳はありません。それなりに焼けば後は聖なる河に流すのだといいますが、生焼けの亡き骸にまったく木喰の和歌のとおりに犬と烏が集まっている場面がありました。 去年の年末頃に自家のすぐ近くで鹿が死んでしまいました。前日にはなにもなかった場所に鹿は死んでいたのですが、昼前に自分が見付けた時にはすでにお腹には穴が開いてその内蔵はなにかの動物に食べられてしまっていました。自然の中で生れて死んで、その肉体がまた次の命を養ってゆくということはあまりにもあたり前の事なのだということを改めて思いました。言うまでも無く人間はたくさんの動植物のいのちに養われて生きている訳です。 生れてきて何を残すのか。べつに何も残さなくてもよいといえばよいのでしょうが、陶工はやきものを焼くことによってしか陶工としての生命はありません。昨年末に小さな窯を新たに作りその月のうちに続けざまに三度の窯を焚きました。一生懸命仕事をしたいと願ったのです。それは土の中に埋め込まれた窯でちょうど寝そべって入れば土葬にされた棺の中にいるような気持ちになります。その窯を初めて焚き終えてその数日後にまた潜り込んで出来た品物を出したまだ素肌が触れれば熱いくらいの窯の中で、小一時間ほどでしょうかお腹の上に手を組んで静かに仰向けになって寝そべっていました。窯の奥ほどすぼまっているので両肩が側面の壁に挟まるまで潜ればちょうど鼻の頭の触れそうなほどに天井があるほんとうにぎりぎりの大きさです。ひびだらけのこの天井ががさりと崩れればきっと生き埋めになって死んでしまうとは思いましたが、その暖かい土の中にいることはなにか大きなものに抱きいだかれているようでなんとも心地の良い不思議な気持ちになりました。このままここで死んでしまうのはいかにも幸福なことのようにも想われたのです。 土の中に寝そべりながら祖母のお葬式の時のことを想いました。その墓は掘り出した土を棺の上から被せれば棺の入った分だけこんもりと土が盛り上がっていたのを覚えています。この土の中に祖母は居るのだという気がしました。やがていくらかの歳月が経ち、木棺が朽ちて崩れた時にその小さな盛り上がりはまわりに並んだたくさんのお墓のようにまた何も無かったように平たく沈んだのでしょう。祖母の亡き骸はきっと虫達や植物を養い彼らの身体の内にいのちは受け継がれたに違いないのです。 また朝鮮のお墓のことも想いました。朝鮮半島に行ったことはありませんが、彼の地のお墓はやはりこんもりと盛り上がったまるいおっぱいのような姿の土まんじゅうです。犬か烏に喰われてなくなってしまうのもよいが、日本人の自分には願っても叶う訳もないことですがこういう朝鮮のお墓に入りたいという気がします。沖縄のあの亀甲墓のうつくしさもほんとうに立派なもので以前はあんなお墓に入りたいものだと思ったこともありますが、あれは一族がしっかり守り続けなければどうにもならないもののような気がします。それに比べれば朝鮮のお墓はいつか人に忘れ去られればやがてそのまま静かに自然に還ってゆきそうなのが好ましいと想うのです。 窯に埋もれて死んでしまうということは充分に仕事をしたならばほんとうは陶工冥利に尽きることなのでしょうが、自分にはまだまだやっておきたいことがありすぎるのです。出来ることならもう一度会っておきたいひとがあります。見たいもの、行きたいところもいくらでもあるのです。その時が来てもう駄目だと分かればあんがいあっさりと諦める気はしますが、生きている自分には現世への執着は強く、生きる間は精一杯生きたいという気がするのです。 いざ死ぬならば犬か烏に食べられて他のいのちの中に生きるというのは当人にして見ればそれほど悪いものではないとは思うものの、現代社会の中では動物に喰い散らかされた身よりのない死体を行政か業者が処理しなければならないというのもいかにも気の毒で申し訳ない話でそう思うとちょっとへたな死に方はしないように気を付けなければという気にもなるしなかなか簡単ではありません。 いつまでも生きている訳は無いことは分かり切っているのに、ただ何となく過ぎた今日のような明日がまたあるとついつい思ってしまいがちですが実際は分からない。今日のうちに出来ることは今日のうちにすませておきたいと思います。怠け者の自分はそんなふうに心がけなければどうにもならないものになる。もう一度、もう一度と執着を忘れず最後にはもう死ぬのは嫌だとわからず屋なことを言い出しかねない強欲な自分は、するだけのことをしたらその時をあっさり受け入れることが出来るように日々全力を出し切ってそれなりの覚悟を決めて生きたいと願います。・・・・・ この文章は後半の初窯のあとの暖かい土の中で思ったことなどを去年のうちに仕事用のブログに書いたものの、いかにも違和感がある気がしたので載せずにいたものに加えて正月の挨拶にと前半を書き足したものです。ここの更新はしばらく止めていましたがこんなものを置く場所はここしかない。 と、書いたままでまた月日は過ぎた。 そして5月2日 忌野清志郎さんが亡くなった。 南無阿弥陀佛