カテゴリ:やきもの仕事
五条坂の陶器まつりも終わりました。炎天下と排気ガスに人込み、そして今年はほぼ毎日のように夕方か夜に一時間ほどでしょうか雨が降りましてなかなか大変でした。
しかしあれだけたくさんの作陶家のやきものがあるなかで、それほど多くはないとは言うもののぼくのものの前で立ち止まって手に取って下さる方があるのはありがたくも不思議なことのような気がします。去年やはり同じ場所に出していたので何かお求めいただいた方で今年も何か、とお立ち寄り下さった方も何人かはあってこれは一年間家庭で使ったうえで一応の及第点をいただいたようで安心しました。陶器というのはぼくの実感では轆轤して窯から出て来て完成ということではなく、どこかの食卓で用いられていつか釉薬は擦れて艶を失い、土が染みになったりあるいは縁が少し欠けたりしてこそのものだと思うので、そういう方とは制作の後半の仕上げをおまかせしているある意味では器を作る共作者という気もして、暑く落ち着かない場所なのであまりゆっくりとは行かないもののそれでも一年ぶりにお話出来たのもうれしいことでした。 またこのブログを見て旧知の友人なども訪ねてくれたり、また他の誰かにお話しして下さってその方が声を掛けて下さったりそういうこともうれしいことだし、まわりに出している作陶家仲間も何かと不慣れでひとりで困っているぼくに親切な気遣いをしてくれたのも感激した。また最終日の片付けに遅くまで付き合ってくれたMさんにもいつもながらお世話をお掛けした。 なかなかご縁の結ばれることのない窯の中で色やかたちが上手く行かなかったものや窯傷のものなどの働き場所が見つかるのも陶器まつりのような場ならではのことでありがたいです。 多くの人が手に取り使いたいと思う器というのはそのこと自体がその器の社会性があるということを表しているわけで非常に立派なことですがぼくの器は残念ながらそうではないのです。が、しかしだから社会性が無いのかといえばそういうことではなく様々な点で現状に受け入れられにくいものではあるとしても、かくあって欲しい、あらねばならないという理念を呈示する仕事というのはやはりまた必要だとは思っているのです。つまりは現状の社会を動かす政治家だけではなく、別のところでは坊さんも行者もいらないとは思っていないというふうな意味です。滝に打たれたり山道を歩き廻っている行者には少しも生産的な点はないとしても、それでも誰かが彼を支えている。そういうことは確かに必要とされているのです。 手仕事の残した品物の命脈は長くてもその仕事それ自体は人と共にしか存在しません。例えば土を掘るところからかたちして釉を掛けて窯で焼くところまでの方法や技術というのは数千年の連綿と続いた伝統が裏打ちするものではありますがいったん途絶えてしまえば儚いものです。未来永劫意味の無いものならばそれでもかまわないのだろうとは思うのですが、ぼくが見るかぎりうつくしい陶器はどういうところから生れてきたのかということを考えればなんとか誰かが守らなければならない仕事というのがあるような気がします。趣味的な美術工芸ではなく、もっと切羽つまった実用工芸の仕事がうつくしいものになって欲しいというのがやきものを愛する自分の願いです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.15 23:31:31
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