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カテゴリ:日記
友人から泣いて電話が来た。
子宮筋腫と内膜症で手術するかも、と。 私は親友として、治療家の端くれとして、 再三彼女にあぁすれば?こぉすれば?と、知っている情報を彼女に言ってきた。 それを何一つ聞き入れずに、手術になったからって、泣いても、困る。 そお言う場合どおしたらいいんだろう。 それが彼女の選択だから、と、見守るしかないのだろうか? その話を夫にしたら、私も同じことをしていると言う。 タバコをやめろ、と夫はいう。私はタバコを吸うのは病気のようなものなんだからやめられないと言う。 夫にしてみれば、これで肺がんになって泣くのは君だと。 それは、友人が今泣いているのと同じだと。 なぜ人は習慣を変えるのがそんなに難しいのだろう。 私は喫煙は、体内のニコチンが切れた時に喫煙衝動に駆られるので ある種シンナー中毒や麻薬中毒と同じだと思っている。 意志の力でやめる人はいるが、凡人はニコチン切れがニコチンを求めて、無意識のうちに、次のタバコに火をつけている。 私がタバコをやめない限り、うちでは話が進まない。 タバコを吸う私を責め、遠ざかっていく夫。 タバコを吸うことを理由に子供の話は、うちではご法度だ。 私がタバコを吸っている限り、子供は望めないからセックスもしない。 臭いからといって近づく事もない。 いっそ浮気でもしようかな?と、何度思ったことか。 いわゆるセックスレス夫婦になってしまうとは、夢にも思わなかった。 うちは私がセックスを望んでも、夫に断られてしまう。 悪いけど、できない、と。 でも、夫婦って成り立っていくものだ。 友人の話から始まって、こんな内容になるなんて自分でもびっくり! 話を友人のことに戻そう。 あの手この手を提供しても、それにピンときて、取り入れるのはその人だから、難しいなぁ、と思う。 中途半端に提供しても反発を招くだけだし。 友人というのがまた中途半端なのかもしれない。 病院で患者さんに同じ話をしても、治療家と患者の関係で話すのとでは、話の浸透度が違う。 先生に言われた、ということで、患者さんは少しの情報でも吸収していく。 ありがたい話として、持って帰るのだ。 でも、友人だと、同じ話をしたことろで、私には関係ないわ、ぐらいにしかおもわないようだ。食いつきが全然違う。 仕方ないのかな? それはやはり魂の学びとして、ただ見守るしかできないのかもしれない。 私は知っている限りの情報を提供した。 今度は彼女がこころの底から良くなりたい、何とかしたいと思った時に、私は出て行こうと思う。 彼女の病気が魂の学びとして、今彼女に必要だから起きていることだとしたら、私は余計なことはできない。 病気を悪いものと見る見方自体が、おそらく間違っているのだろう。 書いていたら、なんだか私自身が落ち着いてきた。 これは彼女の問題ではなく、私の学びのためだったのだ。 病気をありのまま受け入れる。 病気は悪いものではない、ということの再認識だったのだ。 じゃあ、わたしのタバコはどぉなのよ~>< お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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