姫野カオルコ「終業式」
この作品を読んでふと感じたことは、手紙を書かなくなってからどれくらい経つだろうということでした。いつ書いたのかさえ思い出せないくらい、自分にとって手紙は疎遠なものになってしまったように思います。考えてみるとメールが普及した今では、手紙を書く機会は大分少なくなってしまったのかもしれません。しかし、全文を手紙のやり取りのみで構成されていたこの作品を読んで、メールは決して手紙の代わりにはなれないし、メールでは表現しきれないものが手紙には存在することを認識することが出来ました。この作品は、悦子と優子という二人の女子高生の手紙のやり取りを軸に物語は始まります。普通の女子高生同士の手紙のやり取りなので、内容はクラスメイトや先生のこと、授業や進路のことなど第三者にとってはとてもたわいのないことが書かれています。しかもそこに登場する単語は、学生時代が霞んで見えるくらい遠のいてしまった私が読んでも分からないことが多かったりするので、三十代はおろか二十代や現在学生の人達には理解しがたい部分が多いかもしれません。多分この作品の始まりは四十代から五十代の人達が学生時代の頃の設定ではないかと思われます。しかしながらこの作品からは学校のチャイム、クラスメイトの話声、誰かが弾いているピアノの音色や放課後の運動部の掛け声など、学生時代を経験した者なら誰でも思い起こせるであろう普遍的なものが感じられるのです。なので、年齢を問わずほとんどの人が共感出来る内容になっていると思います。さて、この作品の驚くべき点は手紙のみの文章なのに多くのことが語られているということだと思います。多分、手紙を書くという行為は特定の誰かに向けて書かれているにもかかわらず、自分を深く掘り下げる作業に似ているからなのかもしれません。一人黙々と紙とペンを使って自分の想いを綴り遠くの誰かに届けるという行為は暗い海から遠くへ光を届ける灯台の灯りに似ているように感じます。そうすると、さしずめメールは早くて便利なGPSということになるのかもしれません。GPSは今となってはなくてはならないものだとは思いますが、暗い海で孤独に打ちひしがれたときに届く灯台の灯りは、どんなものよりも心の奥底まで照らし温めてくれるような気がしました。手紙の良さ、学生時代の空気を再認識出来る素晴らしい作品です。はるか昔に学生だった方も、現在学生の方もぜひおすすめです。