ブッダ (137回目)
今日は夜になってからすごい大雨です。 あまり春っぽくないですが、 ちょっとつっこんでブッダの思想、または仏教について知りたいなあと思うこの頃です。 改めて繰り返しますが、「スピリチュアル」な興味ではありませんのであしからず。 昔から疑問なんですが、仏教ってお経が山のようにあって、わけのわからない漢字が無限に続いていて、何のためにあるのかわからない。って言ったらものすごい失礼なのはわかってるんですが。 でも本来仰々しく難しく装うことにはなんの意味もないはずです。大事なのはその中身でしょう。 もっと言うと2500年前にブッダが説いた教えは後世の多くの人々によって変容していき、そうしてあるのが現在の仏教なわけで、本来の姿では全くなくなっている。空海の持ってきた密教になるともはや原始仏教とは正反対ですね。。それはそれで興味ありますが。 長い年月と多くの人々の知恵によって磨き上げられた壮大な哲学体系という意味では世界宗教としての仏教には非常に価値があるとは思うのですが、僕はもっと根本的にブッダがなにを考え、なにを説いたのか、それが知りたい。 生身の1人の青年が何を思って何に気づき、その後どんな人生を歩んだのか、それを知りたい。 僕の場合多分に哲学趣味があるので、ブッダが最も嫌ったタイプの人間かもしれないですが・・・ブッダが説いたのは実践、行動です。世の中はこうなっていて、極楽はこうなっていてうんぬんなんて形而上的なことは一言も言っていない。どれが正しくてどれが間違っているといった議論をしない。そもそもそうした分別というものは存在しないと説いている。 あくまで人がどのようにして苦しみから逃れることができるか、解脱に至るために必要な道をひたすら説いている。個人の解脱。一人一人が正しい行いを実践し、悟りの境地に至る。 人はなぜ苦しむか。それは執着するからである。自分であらざるものを自分のものと思い込んで執着する。しかし世の中は無常である。すべてのものは生まれそして消滅する。自分の思い通りにはならない。だから苦しい。 「楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にも、感受されたものはすべて、「これは苦しみである」と知る。」――スッタニパータ 739「人々がいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。」――同 588「人々は「わがものである」と執着した物のために苦しむ。所有したものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅すべきものである。」――同 805 人はなぜ執着するのか。それは抑えがたい生存への欲求である。それは心の奥深くに黒々と渦巻いている。 「わたくしは、人間を引きずるものを貪欲、ものすごい激流とよび、吸い込む欲求とよび、はからい、補足とよび、超えがたい欲望の汚泥であるともいう。」――同 945「この世の人々が、もろもろの生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのをわたしは見る。下劣な人々は種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。」――同 776 ブッダは物静かで温厚な人柄であるという様々なエピソードがあるが、同時にブッダは非常に厳しい人間観をもっている。 ブッダの思想は究極のマイナス思考からでているように思う。だからこそ深みを感じる。 と、これまで読み聞きしたものの一部をつらつらと並べてみる。折りにふれて自分なりに考えてみよう。 ブッダの言葉が比較的そのままの形で書かれている原始仏教経典は、パーリ語で書かれたものが伝わっている。これら経典の起源は起源前5-3世紀頃まで遡ると見られる。ただし、同じ経典内にも新しい部分とふるい部分が存在するし、現存する写本は紀元後1世紀頃なのでこうした点には留意するべき。経典は「経蔵」とよび、5つの部(ニカーヤ)に分かれる。1. ディーガ・ニカーヤ(長部経典)~長阿含経2. マッジマ・ニカーヤ(中部経典)~中阿含経3. サンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)~雑阿含経4. アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)~増壱阿含経5. クッダカ・ニカーヤ(小部経典) ・ダンマパダ(法句)~法句経 ・ウダーナ・ヴァルガ(感興偈) ・スッタニパータ(経集)~義足経 ・テーラガーター(長老偈) ・テーリーガーター(長老尼偈) ・ジャータカ(本生物語) などこの中でもスッタニパータは最初期に編集された仏典の一つ。一部を除いて漢訳もされなかった。 仏教学者の中村元さんがこうした原始経典についていくつもの訳本、解説本を出してくれている。ありがたいです。参考にどうぞ。「ブッダの人と思想」 中村元・田辺祥二 NHKブックス「ブッダのことば」中村元訳 岩波文庫 (スッタニパータ)「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」中村元 岩波文庫 (ダンマパダ・ウダーナ・ヴァルガ) 「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次の通りである。能力あり、直ぐ、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、もろもろの感官が閉まり、聡明で、高ぶることなく、もろもろの家で貪ることがない。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生けとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」――スッタニパータ 143-145「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生けとし生けるものは、幸いであれ。」――同 146, 147(慈しみの経)