島田三郎 判決は国民の輿論に在り(感想)
島田三郎、旧姓・鈴木三郎は、1852年に幕府御家人鈴木知英の三男として江戸に生まれ ました。 昌平黌で漢学を修め、維新後、ブラウン塾沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校で学びました。 ”島田三郎 判決は国民の輿論に在り”(2022年4月 ミネルヴァ書房刊 武藤 秀太郎著)を読みました。 横浜毎日新聞に入社して自由民権を論じましたが、退社して官途につき、のち大隈重信らとともに、官を辞して立憲改進党の創立に参加し、ジャーナリスト政治家として活躍した、島田の多彩な人生を描き出しています。 1874年に横浜毎日新聞社員総代、島田豊寛の養子となり、同紙の主筆となりました。 翌年、元老院書記官となり、1880年に文部省に移り、文部権大書記官となりましたが、明治14年の政変で大隈重信派として諭旨免官となり、横浜毎日新聞に再び入社しました。 1882年に嚶鳴社幹部として、立憲改進党の創立に参加し、同年に神奈川県会議長となりました。 嚶鳴社は元老院大書記官の沼間守一が1878年に設立した政治結社で、自由民権と国会開設を主張しました。 1888年に沼間から、東京横浜毎日新聞社長の座を受け継ぎました。 帝国議会開設後は、神奈川県第一区横浜市選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めました。 進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党と立憲改進党系の諸党を渡り歩きました。 その後、犬養毅との対立から大石正巳らとともに桂新党の立憲同志会に入り、後に憲政会に合流しました。 しかし憲政会が人道や軍縮に積極的ではないとして同党を離党して、立憲国民党の解散を余儀なくされていた犬養と和解して、新党革新倶楽部の結成に参加しました。 尾崎行雄、犬養毅とともに大隈重信門下の三傑と呼ばれ、自由民権運動と護憲運動を推進しました。 社会問題にもいち早く目を向け、廃娼運動や足尾銅山鉱毒事件の被害者救済に尽力しました。 武藤秀太郎さんは1974年生まれ、1997年早稲田大学政治経済学部卒業。2005年総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程単位取得後退学しました。 学術博士で、現在、新潟大学経済科学部教授を務めています。 尾崎行雄、犬養毅、島田三郎の三者は、1881年の明治14年の政変で下野した大隈重信が結党した、立憲改進党の中心メンバーでした。 また、いずれも1980年におこなわれた第1回衆議院議員総選挙に立候補し、当選しています。 その後、尾崎が25回、犬養は18回と、それぞれ連続当選をはたしました。 帝国議会を誕生から長きにわたり支えた尾崎と大養が、憲政の神様とならび称されていることはよく知られています。 実のところ、島田も第1回衆議院議員総選挙以来、亡くなるまで衆議院議員をつとめつづけました。 その連続当選回数は14回。第14回総選挙まで連続当選をはたしたのは、島田、尾崎、犬養、河野広中、箕浦勝人の5名にすぎません。 島田がもっと長生きしていれば、当選記録をさらに更新していたかもしれません。 とくに、島田の選挙区は、横浜という大都市であり、有力者が虎視耽々と議席をねらう激戦区でした。 島田は、衆議院議員となる前にも、神奈川県会議員や横浜相生町の町会議員として活動していました。 議員としての在職は、足かけ40年あまりにおよびます。 労働組合運動にも理解を示し、1899年の活版印刷工の労働組合である活版工同志懇話会の会長に就任しました。 他に、キリスト教会の諸活動、廃娼運動、足尾鉱毒被害者救済運動、矯風事業、選挙権拡張運動を生涯にわたって支援し、第一次世界大戦後は軍縮を主張しました。 足尾鉱毒事件を告発した田中正造とは盟友であり、栃木県佐野市の惣宗寺にある田中正造の分骨墓碑石に刻まれた、嗚呼慈侠田中翁之墓という文字は三郎の直筆です。 政治上の不正にも厳しく対応し、星 亨の不正を攻撃、シーメンス事件を弾劾しました。 シーメンス事件は、ドイツのシーメンス社が日本から軍艦や軍需品の受注をしようと、日本海軍の高官に多額のコミッションを支払ったとされる贈収賄事件です。 議会での島田の告発がきっかけとなり、一大疑獄事件へと発展し、時の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込むこととなりました。 島田は正義を口先だけでなく、行動で体現した唯一の政治家でした。 島田の清廉潔白な姿勢は、不正に憤る青年の志気を大いに鼓舞してくれました。 その一方、政界で孤立してしまい、満足な成果を残せませんでした。 1923年11月14日、島田は東京麹町の自宅で静かに息をひきとりました。 享年72才で、その年の1月に発病してから、少しずつ回復へと向かっていたものの、9月1日に起きた関東大震災による避難生活で、ふたたび病床の身となりました。 死因は、気管支炎と肺炎の併発でした。 島田に肩書をつけるならば、何より最初におくべきは政治家となるでしょう。 青山斎場でおこなわれた島田の葬儀でも、数干人におよぶ参列者の中に、内務大臣、司法大臣、陸軍大臣ら現役閣僚をはじめ、憲政会総裁、衆議院議長、衆議院副議長などがいました。 しかし、島田の葬儀を主催したのは、こうした政治家でなく、学者や社会運動家でした。 葬儀の司会をつとめたのは、早稲田大学教授であった内ヶ崎作三郎でした。 まず、ジャーナリストの石川半山が島田の遺文を読みあげました。 つぎに、大正デモクラシーのオピニオンーリーダーであった、東京帝国大学教授の吉野作造が経歴を紹介しました。 それから、救世軍の山室軍平が説教をおこない、早稲田大学教授の安部磯雄が惜別の辞を述べました。 これは、島田の遺志にもとづくものであったようです。 吉野が葬儀で読んだ原稿では、政治家としての島田の一生が総括されていました。 また、内村鑑三が島田の逝去直後に記した日記には、日本唯一人のグラッドストン流の正義本位の政治家との記述があるといいます。 近代人より見れば旧い政治家で、山本権兵衛氏や後藤新平氏とは全く質を異にする政治家でした。 多分島田のような政治家は再び日本に出ないでしょう。 邪を排し曲を直くする点に於て、わが国まれに見る大政治家でした。 吉野と内村がともに島田を、日本で類をみない正義の政治家と表現しました。 こうした亡くなった直後に示された高い評価と裏腹に、島田の名は今日一般にあまり知られていません。 これは、同じ大隈重信門下の三傑たる、尾崎や犬養と比べても歴然です。 尾崎と犬養には、記念館や銅像など、功績を顕彰する施設が複数存在します。 これに対し、島田にまつわるようなものは、ほとんどないといってよいでしょう。 政治家としてのキャリアをみると、島田が尾崎・犬養よりも見劣りすることは否めません。 尾崎は第一次大隈重信内閣で文部大臣、第二次大隈内閣で司法大臣にそれぞれ就任し、東京市長も10年近くつとめています。 犬養は第一次大隈内閣で、尾崎の後任として文部大臣となったのを皮切りに、第二次山本権兵衛内閣、加藤高明内閣でも大臣を歴任し、最終的に、総理大臣の座までのぼりつめています。 これに対し、島田は30年の議員生活で閣僚経験がなく、衆議院議長を一度つとめたにすぎません。 しかし、明治から大正にいたる日本の憲政史を考えるうえで、島田が残した足跡は無視でぎないといいます。 尾崎や犬養と肩を並べる、もしくはそれ以上の存在であり、吉野作造は島田を中心に、日本の憲政史を執筆しようと構想していたといわれるそうです。 これは未完に終わりましたが、公刊されていれば、後世における島田評価も変わっていたかもしれません。 島田は身売りされた娼婦や劣悪な条件で働く労働者、足尾鉱毒事件など、1890年前後より露わとなったさまざまな社会問題の解決に、いち早くとりくんだ政治家でした。 同時代で島田ほど、社会的弱者に広く目を向けた政治家はいないのではないでしょうか。 その意味で、日本で類をみない正義の政治家という、吉野、内村の島田評価は決して誇張ではありません。 さらに島田には、政治家、社会運動家のほか、翻訳家、官僚、新聞記者、歴史家といった多彩な経歴があります。 本書では、先行研究や新たな資料をふまえつつ、あらためて島田三郎の全体像を描き出してゆきたいといいます。はじめに/第1章 立身出世を求めて/第2章 官僚時代/第3章 人生の転機/第4章 初期議会での活躍/第5章 政治家と経営者の二足のわらじ/第6章 政界革新運動のリーダーとして/第7章 苦悩の晩年/参考文献/おわりに/島田三郎略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 島田三郎 判決は国民の輿論に在り ミネルヴァ日本評伝選/武藤秀太郎(著者) 【中古】afb【中古】 日本の歴史的演説/(趣味/教養),大隈重信,島田三郎,尾崎行雄,後藤新平,永井柳太郎,渋沢栄一,田中義一 【中古】afb