鉄道御普請最初より エドモンド・モレル(感想)
明治5年=1872年と言えば日本はまだ開国間もない頃で、鉄道の技術などは皆無だったと言われています。 明治政府はイギリス公使ハリー・パークスの推薦を受け、セイロン島で鉄道敷設の指揮をしていたエドモンド・モレルを日本に招きました。 モレルは初代鉄道兼電信建築師長に就任し、以後、日本の鉄道建設の指揮に当たり、明治5年に日本で初めて新橋?横浜間に鉄道が開業しました。 ”鉄道御普請最初より エドモンド・モレル”(2018年8月 ミネルヴァ書房刊 林田 治男著)を読みました。 明治初期のお雇い外国人の一人で、英国人初代技師長として在職期間20カ月弱という短いなかで鉄道建設を指揮し、日本の近代化を支えたエドモンド・モレルの生涯を紹介しています。 林田治男さんは1949年長崎県生まれ、1980年山口大学大学院経済学研究科修士課程修了、1983年 京都大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学しました。 大阪産業大学経済学部教授を経て、現在、大阪産業大学名誉教授を務めています。 維新政府は、欧米先進諸国に早く効率的に追いつくことを目指し、多くのお雇い外国人を日本に招きました。 それは殖産興業、富岡強兵のためです。 当時アジアでは、日本やタイ王国などの一部を除いて欧米列強諸国による植民地化が進んでいました。 明治政府ではそれを回避するために、富国強兵を推し進めて近代国家を整備することを掲げていました。 明治初年においてその動きは、ともすればすくなからぬ日本人の反感を買うおそれがありました。 そこで、日本人に西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、大隈重信・伊藤博文らは鉄道の建設を行うことにしました。 また、元々日本では海上交通が栄えていたものの、貨物・人員の輸送量が増えていたため、陸上交通においても効率化を図る必要がありました。 ひと口にお雇い外国人とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、明治元年から明治22年までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍者は2,690人です。 内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人です。 明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人でした。 鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表です。 とりわけ鉄道関係は、英国人を中心に総勢200名余と最も多かったです。 このうち、初代技師長として活躍したのがモレルです。 エドモンド・モレルは1840年11月にイギリス・ロンドンのピカデリー、ノッティング・ヒルに生まれ、キングス・カレッジ・スクールとキングス・カレッジ・ロンドンに学びましだ。 オーストラリアのメルボルンにおいて土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのオタゴ地方の自治体で技術者として5か月、ウェリントン地方の自治体の主任技術者として7か月働きました。 1865年5月にイギリス土木学会の準会員に推薦され入会しています。 この間、1862年2月にロンドンにおいてハリエット・ワインダーと結婚しています。 モレルは1866年1月から北ボルネオにあるラブアン島において、石炭輸送用の鉄道建設に当たりました。 モレルがラブアン島にいつ頃まで滞在していたのかはわかっていません。 1867年にはアメリカ公使館員のポートマンが、江戸幕府の老中小笠原長行から江戸・横浜間鉄道敷設免許(日本人は土地のみ提供)をうけ、明治維新後の新政府に対してその履行を迫りました。 明治政府は、この書面の幕府側の署名は新政府発足以降のもので、外交的権限を有しないものである旨をもって、却下しています。 当初は東京と京都・大阪・神戸の間、すなわち日本の屋台骨となる三府を結ぶ路線と、日本海側の貿易都市である敦賀へ米原から分岐して至る路線を敷設しようとしていました。 このころは版籍奉還から廃藩置県に伴い、政府が約2400万両もの各藩負債を肩代わりすることになったため、建設予算が下りませんでした。 民間からの資本を入れてでも鉄道建設をおこなうべきだという声が出ましたが、実際に鉄道を見ないうちは建設が進まないと考えられました。 そして、とりあえずモデルケースになる区間として、首都東京と港がある横浜の間、29kmの敷設を行うことに1869年に決定しました。 当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定しました。 これは、かねてから日本への売り込みを行っていた鉄道発祥国のイギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行った、駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかったです。 モレルは、日本での鉄道導入に際して外債の発行を依頼されたホレイショ・ネルソン・レイと、1870年2月にセイロン島のガレにおいて会談し、日本へ赴いて鉄道建設の指導をすることになりました。 日本には夫人を連れて赴任しています。 1870年4月に横浜港に到着しました。 イギリス公使ハリー・パークスの推薦があり、その職務への忠実性も評価されたモレルは、建築師長に任命されました。 モレルは早速5月に、民部大蔵少輔兼会計官権判事だった伊藤博文に、近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出しました。 また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めています。 さらに、森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良いと、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行いました。 これにより、外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになりました。 こうしたことから、日本の鉄道の恩人と賛えられています。 日本側では1871年に日本の鉄道の父とされる井上勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わりました。 モレルは在職20ヵ月足らずで結核に冒され、栄えある鉄道開業式を見ることなく30歳で息を引きとりました。 不幸が続き、夫人も後を迫うように半日後に亡くなりました。 モレルの遺志は、建築副役のジョン・ダイアックらに受け継がれ、外国人技師の指導を受けた線路工事が終わり、伊藤などを乗せて試運転も実施されました。 そして、停車場などの整備も順次進められ、明治5年5月に品川駅 - 横浜駅(現在の桜木町駅)間が仮開業しました。 近代化に果たした功績に対する感謝の念に加え、夫妻の悲劇が欽道の歴史に関心のある人びとの心に刻み込まれたといいます。 横浜の外国人墓地にはモレル夫妻の墓が建てられ、昭和37年にはその偉業を称えて鉄道記念物に指定されました。 また、旧横浜駅であった桜木町駅構内にも、モレルのレリーフが設けられ、その功績を今なお静かに伝えています。序 章 モレルとは何者か/語り継がれてきた人/学界の多数説と森田説第一章 英国時代/誕 生/家 庭/キングス・カレッジにおける学業/結 婚/父方と母方の家族第二章 技師となる/修行時代/メルボルン/ニュージーランド/土木学会第三章 鉄道と関わる/ラブアン在勤/ラブアンの環境と総督/南豪州第四章 日本へ/赴 任/後日譚/軌間決定/来 日第五章 日本在勤/契約上の地位/鉄道建設/死亡、遺言/日本側史料/死亡記事第六章 貢献と動機/技量と貢献/技能と赴任の動機参考史料・文献/エドモンド・モレル略年譜/巻末史料/人名・事項索引