普通は3日といわれるが私の場合は2日坊主にもならない散歩を今日から再開しました。散歩再開の一つのきっかけになったのが読書でした。
ここのところ毎日本を読んでいて、今はまっているのは阿刀田高さんの本です。実にいろんなジャンルのことをわかりやすく書いているので面白いです。聖書の話やコーランの話、かと思えばちょっとエッチなジョーク集やブラックユーモアなど実に多彩です。
他にどんな本があるのか探したところ「いろはがるた」を解釈できれば作家になれると書いてあるらしい本も見つかり今取り寄せているところです。
その本が届く前にどういう意味か想像してみました。例えば「犬も歩けば棒に当たる」という最初の部分を自分流に解釈して、それを自分の経験に当てはめて文章にすればいいのかなと思ったのです。
それと川柳や俵万智さんの短歌にも興味を持って読み始めていますので、散歩しながら考えると健康にもボケ防止にもなるかなとはじめました。その散歩の途中で早速見つけたのが春の訪れでした。
葉牡丹の花
葉牡丹が伸びていた
葉牡丹は冬の彩りですが、春の訪れで花茎が伸びて花が咲きそうになっていました。桜ももう少しで開きそうでしたが、散歩するとこうした出会いがあるのですね。
歩き始めて川柳を考えていたのですがメモを持っていかなかったのでなかなか思い出せません。確かこんな川柳です。「健康に 散歩再開 2日坊主」「散歩して健康目指すも3日坊主」。実際はそうなりそうですが、私が好きな川柳「続けよう3日坊主を何度でも」とするつもりです。
さらに、「犬棒かるた」の棒に当たるとは、今日のように出かければ写真の題材を探せるなど、なにかいいことがあるよと言うことかなと思っていました。出かける前は、何か行動すればよいことがあるという意味かと思って、自分の人生でなにがそれに当たるかななどとも考えていました。
この「棒」の元の意味はなんだろうとネットで調べると、江戸時代は棒でぶたれるという意味で現代とはちがう意味だったようです。どちらに解釈する方がいいのでしょうか?私は良い意味に解釈して積極的生き方のことわざとして残して行った方がよいなと思いました。
追伸 ついでに江戸カルタだけでなく京都カルタと大阪カルタがあるそうで載せました。
京都カルタでは「一寸先は闇」 大阪では「一を聞いて十を知る」だそうです。うーん、こちらの方が判りやすいですね。