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カテゴリ:戦争体験ということ
日本の近代史において、敗戦とその後の改革が少なくとも明治維新に次ぐものであったことはいうまでもない。 つまり、明治憲法と現憲法の間に、法的な断絶はないということだ。内容としてはまったく新たな憲法でありながら、旧憲法と法的に連続した 「改正」 憲法であるというところにも、現憲法の根本的な曖昧さが現れている。その理由が、憲法をめぐる政治的な混乱(左右対立の激化)を避けたいという占領軍の意向にあることはいうまでもない(このときの議会は、前年の20歳以上の男女による選挙によって選ばれた戦後初の議会である)。 しかし、「主権者の交代」 という国家の根本問題が、このような単なる改正手続きによって行われるというのは、明らかに奇妙な話である。なぜなら、「主権者の交代」 とは政治学的には政治革命を意味する以外のなにものでもないからだ。このような齟齬を言葉の上で 「解決」 するために提起されたのが、美濃部達吉の弟子である憲法学者 宮沢俊義が提唱した 「八月革命」 説なのである。 明治維新は、それがペリー来航という外からの衝撃によって始まった、薩長下級武士を中心とした少数勢力による政治変動であったにせよ、間違いなく日本人自身による主体的な変革であった。しかし、戦後の変革はいうまでもなく占領軍主導による、また占領軍の意向の枠内で行われたものである。地主制を解体して自作農を一挙に増大させた農地改革は、内容としては十分に社会革命(政治革命に対するという意味での)に値するものであり、これによって戦前の国家体制を支えた社会的基礎は基本的に解体された。 農村の変貌こそが天皇制国家にとどめを指したのであり、高度経済成長もまた、農地改革による国内市場の創出があったればこそ可能だったのだろう。戦前から戦後への社会構造の変化は顕著であり、そこに大きな断絶が存在することは現在から振り返ってみれば明瞭である。 にもかかわらず、その断絶という意識は、橋川や吉本のような 「戦中世代」 を除いて、それほど強く意識されてはいないのではないだろうか。彼らより前の世代にとっては、昭和の軍国主義は明治以来のそれまでの 「正常な」 コースからの逸脱であり、敗戦とその後の政治過程は、単に軍国主義以前の 「正常」 なコースへの復帰として捉えられたのではないだろうか。 戦後、左派に対抗して天皇制を擁護するかのような発言を行った、美濃部達吉や津田左右吉のような戦前リベラリストの意識は、そういうものだったのだと思う。だが、そこには、昭和の軍国主義は明治国家という特殊な体制の必然的な結果ではなかったのかという問題意識が欠落している。 さらに、天皇主権から国民主権への変化を無化するかのように、天皇はそもそも政治的権力者ではなかったことが強調され(それ自体としては正しいが)、「文化国家」 とか 「平和国家」 などといった理念がなんの矛盾もなく明治以来の歴史に接続される。象徴としての天皇という現在の憲法の規定すらも、それこそ古来からの天皇制の存在様式にもっとも一致するものだといった類の議論で非歴史化されてしまう。 そのような戦前と戦後の連続性を最も象徴しているのは、いうまでもなく昭和という年号の存続であり、戦前戦後を通じて在位し続けた昭和天皇という存在だ。明治百年と昭和天皇の在位60年が政府によって祝われることはあっても、戦後50年がそのように扱われることはついになかった。現憲法は、戦後政治を一貫してになってきた保守政権にとっては、「敗戦」 という誕生時のトラウマと結び付いた、決して祝われることのない鬼子なのである。 「戦争体験の思想化」 という橋川の主張は、それ自体普遍性を持ったものだったと思う。しかし、その主張は 「戦中世代」 である彼であったからこそ可能だったのであり、その結果、必ずしもきちんとは理解されなかったのだろう。 戦後60年が経過し、昭和の軍国主義の記憶が実感としてはほぼ完全に風化し、戦後生まれの世代が多数を占めている現在、戦後の社会は最初から自明のものとして受け取られているように思われる。そこでは戦前と戦後の差異が単なるなだらかな変化の積み重ねとしか理解されず、「断絶」 の存在が無視されており、戦争と敗戦の持つ意味が真摯に受け取られていない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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