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カテゴリ:啓蒙ということ
「大衆社会」だって? そんなもの、社会学の入門書にも出てくる言葉じゃないか。 しかし、オルテガの主張は、「大衆の反乱」 こそがファシズムの登場を招いたということだ。つまり、彼は1930年代にヨーロッパを覆うようになったファシズムの支配に警鐘を鳴らしているのであって、その逆ではない。それにマルクスの思想もそうだったように、ある思想の信奉者と称する者らは、えてしてオリジナルな思想から自分に都合のいいところだけを我田引水的につまみ食いし、都合がいいように捻じ曲げ解釈してしまうものだ。これは、どんな思想にもつきまとう宿命のようなものだ。現実的な政治の動向と、彼らが掲げるイデオロギー的看板とは、たいていの場合、あまり関係はない。 それに、「思い上がった凡庸な個人」 に対する批判というのは、けっしてエリート主義的な保守派だけの専売特許ではない。
これは、マルクスの再生産論を検討した 「資本蓄積論」 に対する批判への反論の一節であり、著者は(ロシア領)ポーランドで生まれドイツで活動した革命家、ローザ・ルクセンブルクである。彼女は、レーニンの前衛党論を少数者による官僚的な独裁だと批判したことで有名だが、ここで批判されている 「いつでもなんについてでも、- 日本の親族法や近代的生物学や、社会主義史や、認識論や、人類学や、文化史や、国民経済学や、戦術問題や、人がまさに必要とするなんについてでも書くことができる」 というような人間こそ、オルテガのいう 「大衆」 というものなのだ。 このような 「いつでもなんについてでも」 書いたりしゃべったりできる人間、 それはいじめ問題から外交や政治問題まで、ありとあらゆることについてしゃべりまくる現代の 「評論家」 や 「コメンテータ」 と称する種族にぴったりの言葉である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.08.02 15:21:25
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