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カテゴリ:啓蒙ということ
明治の代表的な啓蒙思想家といえば福沢諭吉であるが、彼の自伝に次のような一節がある。
要するに福沢は、四民平等の時代になっても江戸時代の身分意識が抜けず、「身分」 の高そうな人を見ると慌てて馬から下りた百姓を咎め、「ぶん殴るぞ」 と言ってまで教え諭しているわけだ。 このような一般民衆の中に根付いた身分意識は、たとえば西欧の革命思想に触れて 〈人民の中へ〉 を目指した、19世紀中頃からのロシアの若い知識人たちがぶつかった壁と同じようなものだろう。身分制度が廃止され四民平等の世の中になったからといって、士族と平民という区分は残っていたわけで、たぶんこういう場合の無難な道を選んだだけのこのお百姓にとっては、福沢のような人に行き会ったのが災難というべきだろうか。きっと腹の中では、「訳のわからん変なことを言う御仁だな」 などと思っていたかもしれない。 しかし、この 「ぶん殴るぞ」 という福沢の言葉は、「啓蒙」 ということの本質の一端を示しているようでなかなか興味深い。 啓蒙とは、(英)Enlightenment, (独)Aufklarung というもともとの言葉が表すように、暗闇に光を当てて明るくすることであり、転じて教育を受けていない暗愚蒙昧な大衆に知識を広め教化することを意味する。つまり、この言葉は 「目覚めた少数者である知識人」 と 「無知蒙昧な大衆」 という図式を前提にしているのだ。 18世紀の革命前のフランスやドイツ、19世紀のロシア、そして明治の日本とは、まさにそういう時代だった。土地や財貨はもちろんのこと、教育を受ける機会そのものが、ごく一部の特権階級の人間に限られていた時代、非合理な宗教的迷信が跋扈し、貴族や領主、農民といった身分意識が強く残っていた時代には、啓蒙は変革を目指す知識人にとっての課題であるだけでなく、近代的な産業と強力な軍隊を備えた国家への脱皮を目指す後れた国の政治指導者らにとっても急務の課題だった。 昭和二年(1927年)に創刊された岩波文庫の 「読者子に寄す」 と題した文章は、次のように書き出されている。
この時代の日本もまた、初等教育こそほぼ普及はしていても、高等教育はまだまだ少数の余裕のある人間しか受けられない時代だった。たとえば、1909年に生まれた作家の松本清張は、高等小学校までの8年しか学校に通っていない。たとえ、本人に能力と志があっても、家が貧しければ最低限の義務教育で我慢しなければならない時代だったのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.20 12:43:09
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