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カテゴリ:丸山真男について
浩瀚堂さんという方が、宮台氏の亜インテリ論は丸山の誤読だと指摘している(参照) (参照)。宮台氏の亜インテリ論が丸山のそれとは違うという意味では、この指摘は正しいと思う。 浩瀚堂さんも指摘しているが、丸山のいう 「亜インテリ」 とは 「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、ないし自作農上層、学校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層」 を指している。 これを現在の社会に合わせて修正するなら、小地主を削除し、かわりに農協や漁協、町内会や自治会、PTAの役員などを付け加えれば、いいだろう。 丸山自身の説明を引用すれば、彼らは 「自分の属する仕事場、あるいは商店、あるいは役場、農業会、学校等、地方的な小集団において指導的地位を占めている。日本の社会の家父長的な構成によって、こういう人たちこそは、そのグループのメンバー(中略)に対して家長的な権威をもって臨み、彼ら本来の 『大衆』 の思想と人格を統制している」 ということだ。 つまり、簡単にいえば丸山は、多少の政治的関心を持つと同時に、比較的規模の小さい集団を率いることによって、その集団の構成員に対して、直接に人格的な影響力と支配を行使できる存在を 「亜インテリ」 と呼んだのだ。 とすれば、これが宮台氏の言う 「論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者」とか、「東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず『煮え湯を飲まされる』存在」 とは、意味が違うのは明らかだろう。とくに、後者などは、単に同じ学者・研究者の中の相対的な区別に過ぎず、論点がまったくずれている。 丸山の 「亜インテリ」 論の本来の意味は、単に彼らが本物のインテリではないということにあるのではない。むしろ、彼らが大学教授や文化人、ジャーナリストなどの丸山のいう本物のインテリ(都市の新中間層)と違い、直接自分の配下を持ち、彼らに対して影響力を行使できる 「小天皇的」 (丸山)存在であるということ。また、それによって現実の世論形成に対し、全体として大きな影響力を持っているというところにあったのだ。 ところが、宮台氏は学者として一流か、それとも二流、三流かというふうに問題を設定している。これは、浩瀚堂さんが指摘したとおり、明らかに宮台氏の 「誤読」 である。 上にあげたような階層が、戦後も草の根保守として、一貫して保守党の支配を支えてきたことは周知の事実だろう。しかし、すでに21世紀にはいっている現在、彼らははたして丸山が60年前に指摘したような 「小天皇的権威」 を持っているだろうか。その答は、むろん否である。 農村は崩壊し、大資本の圧迫によってどこの地方でも商店街はさびれ、小工場は海外からの安い製品の流入によって倒産寸前である。地域における学校教師の権威も、ほとんどないに等しい。かつては地域を束ねてきた名門とか名家とかいわれる存在にしたって、昔のように、町や村のみんなに、選挙のときは XXXX に入れろ、などと命令する権威は持っていないだろう。 その結果、起きたのが、昨今の選挙のたびに、あっちこっちと揺れ動く、都市を中心とした大量の浮動層(票)という現象であり、彼らをターゲットにした、小泉流劇場型政治の登場というわけだ。 前に、戦前の日本(経済)社会の二重構造というのを指摘し、「丸山の亜インテリという範疇は、資本制社会に一般的に存在する 『旧中間層』 に戦前の日本社会の特殊性を加味したものだ」 といった。彼らは、戦前においてはたしかに経済的地位に比べて強い世論形成力=政治的影響力を持っていたかもしれない。 しかし、いまやその地位は政治的にも経済的にもはるかに弱化している。したがって、本来の丸山の 「亜インテリ論」 は、多少の修正を施したところで、もはや通用しないし、意味を持たないのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.19 04:32:04
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