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カテゴリ:啓蒙ということ

 現代では昭和30年代すら、すでにノスタルジーの対象になっているらしい。当時を実際に知る人にとっては 「懐かしい」 時代なのだろうし、知らない人にとってはなにやら珍しさのようなものがあるのだろうか。どちらにしても、ノスタルジーというものは現代を映す鏡のようなものだ。

 「貧しくとも、家族の情愛と人の優しさが残っていた時代」
というのは、こういうノスタルジーを語るときの常套句だが、たんに技術水準が低く物が少なかったということだけでなく、社会の中の相対的に貧しい人々が今より多かったということは間違いないだろう。

 たとえば、この時代に活発化した新興宗教の信者には、貧困や夫の暴力、飲酒、浮気に悩む主婦、あるいは子供の障害や病気に悩む母親などが多かったと指摘されている。実際、私の家もある神道系の宗教 (高橋和巳の 「邪宗門」 のモデルになった大本教の流れを汲む) に入信していたのだが、その理由は私が双子の未熟児で生まれて、病弱だったせいだったそうだ。そのころに通わされていた布教所は、繁華街の裏通りにあるちょっと大きめの民家のような建物だったが、当時の記憶をたどると、たしかに上のような指摘は当たっていると思う。

 それにくらべると、現在の比較的若い層を中心とした新新宗教の入信者の動機は、ずいぶん違っているようだ。それはなんとはなしの不安感であったり、自己のアイデンティティに関する悩みであったりする。そのような悩みは、昔なら 「暇人の贅沢な悩み」 として一笑に付されたようなものだろう。

 もちろん、今でも貧困という問題は存在している。しかし、高度成長と 「一億総中流化」 をへた現代の貧困という問題が、かつてのような日本の社会と経済の後進性によるものでないことは明らかだ。なんといったって、現在の日本は世界有数の経済大国なのだから。「啓蒙」 ということについても、同じようなことが言えるだろう。

 以前に、若者の大学進学率が50%を超えるような社会ではもはや 「啓蒙」 というものは成立しないのではないかと書いた。それは、現代ではすでに啓蒙が完成し、すべての「迷妄」 がこの社会から追放されたという意味ではもちろんない。人間は白紙で生まれてくる以上、つねに教育は必要であり、もしも完全に教育制度が崩壊してしまったら、社会はただちに本当の野蛮状態に戻ってしまうだろう。しかし、いま問題にしていることはそういうことではない。「開明的な知識人」 による 「暗愚な大衆」 への啓蒙という図式が成立しない以上、そのような戦略も無効になっているのではないかということだ。

  丸山真男は東大での 「日本ファシズムの思想と運動」 という講演で、集まった東大生らを前に、「まず皆さん方は第一類型 (本物のインテリをさすー引用者) に入るでしょう」 といったが、いまの時代に東大生だからインテリだなどという図式をそのとおりだと思う人がどれだけいるだろうか。一流大学を出ているからインテリなわけでもないし、外国語ができるからインテリなわけでもない。もちろん、金儲けがうまいからインテリだというわけでもない。また、医者や弁護士、大学教授であるからといって、彼らがすべてインテリだと断言できるだろうか。

 確かに、そのような人々はそれぞれの分野について一般人よりもはるかに高度な専門知識や技能を持っているだろう。しかし、そんなことは当然のことであって、それはそれだけのことだ。「インテリゲンチャ」 という言葉が持っていた意味は、本来そういうものではなかった。

 いずれにしても、社会階層あるいは社会的類型としての 「知識人」 と 「大衆」 という図式はすでに無効だろう。 たとえば、現代における 「迷妄」 の典型としては、オウム真理教の事件をあげることができる。この事件では、事件に関連した者を含めて、信者の中に高学歴の優秀な若者が大勢いたことが波紋を呼んだ。そこには、もちろん彼らを意図的にターゲットにした教団の戦略があったのだろうが、いずれにしてもこの教団を支えた若者たちが、かつてのような土俗的迷信の類にからみ取られた 「低学歴」 の貧困層でなかったことは確かだろう。

 つまり、現代の 「迷妄」 は、いまだ啓蒙されていない社会の後進的な部分の問題ではなく、すでに啓蒙された社会そのものの内部から生まれているのではないだろうか。であれば、なおさらのこと、「知識人」 による 「大衆」 への啓蒙などという戦略は有効性を持たないだろう。

 もちろん、たとえばインチキ科学の類などに、それは違うよと粘り強くいい続けることは必要だろう。しかし、そのようなインチキ科学やトンデモ学説がテレビや出版物に溢れ、人気を集める原因は、たぶんたんなる無知なのではないと思う。






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Last updated  2009.08.02 15:23:34
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