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カテゴリ:政治
カレンダーを見たら、昨日はさんがーつさんじゅうにちでした。ただし、残念ながら日曜日ではなく金曜日でした。ええと、このネタはたぶん若い人には分からないかもしれませんが。 ところで、こちらにも何度か訪問して頂いている瀬戸智子さんのブログの国民投票法案を批判した記事に対して、「国民には選択する権利があります」というコメントがありました。
コメントされた方の趣旨は、国民投票の権利は国民の正当な権利なのに、なんで反対するの、反対するのは国民の権利を奪うことであり、「言論封殺ではないでしょうか」ということでした。 どんな法案に対しても批判や反対の自由はあるのですから、それをもって「言論封殺」だというのは、ちょっとばかり大仰というか筋違いのような気もしますが、それは置いときます。 それより、この「選択する権利」という言葉にいささか違和感を感じたので、そのあたりについてちょっと一言。 「国民には選択する権利がある」 まあ、それはそうなんですけど、これって、なんだか大事な点が抜けているような気がするんです。「選択する権利」って言われると、たとえば駅前の食堂でつっけんどんにメニューを出されて、さあ、ここに書いてある中から気に入ったものを選びなさいって言われているような。 「国民主権」ってそういうことなんでしょうか。主権者としての国民というのは、焼肉定食か焼魚定食を選べって迫られている食堂のお客様なんでしょうか。口を封じられ、手足を縛られた上で、「さあ、どっちか選べ」みたいなことを言われてもね。 若い世代の政治への無関心みたいなことが言われだしてずいぶんたちます。実際、投票率は下がる一方ですが(おっと、他人のことばかりは言えない)、その最大の原因は、結局主権者としての国民の権利が、選挙の際に1票を投じるという最小限の権利に切り縮められていることにあるような気がするのです。 実際、一般の選挙についてもなんやかんやと制限がついていてややこしいし。選挙のたびにやかましい宣伝カーの連呼行為にしても、もともとは選挙運動に対する規制が厳しすぎることに一因があるように思います。 だって、あれもやっちゃいけない、これもやっちゃいけないとなると、立候補した人もほかにやりようがないんじゃないのって、いささか同情したくもなるくらい、この国の選挙法は規制が厳しすぎますからね。結局、愚民(失礼)の皆様をなるだけ選挙や政治にかかわらせないようにして、お前達は1票を入れるだけにしとけ、それ以上つけ上がるんじゃないぞっていうのが、この法律の趣旨のような気がします。 実際、選挙が終わると日本中の警察がやたらとはりきって違反の摘発に乗り出し、中には熱心にでっちあげまでやるところまであるわけで。 その結果、なんとなく選挙というものはこわいもの、一般の国民は政治についてごちゃごちゃ言わずに、ただおとなしく言われたとおりに1票だけ入れればいいのよ、みたいな感じになってやしませんかね。それじゃあ、関心がどんどん低下するのも当然でしょう。 さて、あちこちで選挙が始まっていますね。東京ほどの熱気はありませんが、こちらでもいちおう知事選が始まっています。 ところで、選挙というと、ルソーの「社会契約論」にこんな言葉があります。 イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。 さすがにルソーですね。代議制(間接民主主義)の痛いところを突いています。ルソーの言葉を要約すると、「選挙とは主人を選ぶ奴隷の権利である」ってことになってしまいます。もちろん、それでいいと思っている人はいないでしょうが。 しかし、どうもこの国のお偉い人の中には、実際に選挙とか投票とかいうものをそういうふうにしか見ていない人もいるようで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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