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カテゴリ:政治
こちらのサイトによると、「三寒四温」 とは もとは中国の東北部や朝鮮半島北部で冬の気候を表すために使われていた言葉で、シベリア高気圧から吹き出す寒気がほぼ7日の周期で、強まったり弱まったりすることに由来するのだそうだ。 そこにも書いてあるように、この言葉はたしかに最近では、むしろ低気圧と高気圧が交代しながらしだいに暖かくなっていく、春先の気候変化を表すことが多くなっているが、ここ数日の気候と気温の変動は、まさにこの言葉の本来の意味にぴったりのようだ。 昨日はひじょうに暖かく、近くにある小さな橋の上から下をのぞくと、浅く透明な川の底に、まるまると太った鯉が潜水艦のようにゆったりと沈んでいるのが見えたりしたのだが、今日は一転して冷え込んだ。明日はもっと冷え込むらしい。 冬はなんとなく人が死ぬ季節というイメージがある。今年も、かつての名投手小林繁をはじめとして、様々な人の訃報があいついだ。むろん、冬でなくとも人は死ぬのだし、有名人の訃報などなくとも、あちらこちらで人が死ぬことにはかわりない。古代人ならば、冬とは太陽が最も衰える季節であるから、生き物の力もまたそれに呼応して衰えるものと考えるところだろうか。 世間は不景気のようで、こちらもほとんど仕事がない。つぶれかけた零細塾から転職して、やっとなんとか人並みに暮らせるようになったと思ったら、また前の状態に逆戻りのようだ。とりあえず、しばらくは毎日散歩でもして体力増強とダイエット、それに長年書棚の肥やし状態になっていた積読本の解消に専念しようと思うのだが、それがいつまでも続くようではちと困る。 ところで、衆議院の党首討論と代表質問で、自民党の谷垣総裁は鳩山首相と千葉法相に対して、「指揮権」 発動について三度も尋ねたという (参照)。この場合の指揮権とは、公法のひとつである検察庁法に定められた、法務大臣の次のような権限をさす。 第十四条 法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。
法的にいえば、検察庁は法務省のもとにあり、したがってその最高責任者は法務大臣である。検察庁に所属する検察官は独任官庁と呼ばれ、全体としても、またひとりひとりとしても独立性が強いが、検察庁はあくまで行政機関のひとつであり、法務大臣とひいては総理大臣に責任を負う。そして、同時に大臣はまた検察官の行為に対して、最終的な責任を負う。 そうであれば、大臣が検察に対して指揮権を持つのは当然なのであり、その行使自体を問題視して、あらかじめ法務大臣の手を縛ろうというのは、本末転倒な話と言わざるを得ない。それに、法で明確に定められた権限を行使することが、それ自体としてはなんの問題も含まないというのは、それこそ 「法治国家」 としては自明の話にすぎない。 ただし、捜査への政治権力の不当な介入を防止するために、その行使は慎重でなければならない。だから、問題なのは指揮権の行使そのものではない。ただ、そこには正当な行使と不当な行使の区別があるということであり、その正当・不当については、政治家が責任を負うということだ。反対派は、当然その行使を非難するだろう。また、場合によっては、マスコミなどによって激しく批判されたりもするだろう。 しかし、その結果は国民の声であるところの世論として現れるし、次の選挙にも反映されることになる。つまるところ、政府や政治家の行為の正当・不当について判断するのは、国民自身なのであり、それが保証されているのが民主主義というものなのだ。法定の手続きに従った合法性は、それだけでその正当性を担保するものではない。 官僚ならば、とりあえず法に従っておけば、責任を問われることはない。足利事件で菅家さんを起訴した当時の検察官が、法的な責任を問われずにすんでいるのは、そういうことだ。しかし、政治家の責任はそういうものではない。合法であっても、不当な権力行使として責任を問われることはある。それを引き受ける覚悟があるのが、ようするにウェーバー言うところの、政治屋ではない本物の政治家ということになる。 そもそも、法で認められた大臣の指揮権そのものを封じることは、たんなる行政官庁にすぎない検察を、誰に対しても責任を負わない 「聖域」 とすることである。それは、捜査権と起訴権という強大な権力を有する検察を、絶対的な権力とするにひとしい。しかしながら、誰かの言葉にもあるように、絶対的権力は絶対的に腐敗する。そこに例外はない。 憲法上の三権のうち、司法権は最高裁を頂点とする裁判所がになっている。だが、裁判所は提訴された事件を扱うだけである。とりわけ刑事事件の場合、日本では検察官のみが起訴する権限を持っている。その意味で、検察官は行政権の一部でありながらも、司法権の重要な要素をも構成している。 まして、有罪率のきわめて高い日本の司法では、検察官の実質的な権力はひじょうに強いといわねばならない。その意味において、検察を誰も手をつけられない不可侵の 「聖域」=「独立国家」 とすることは、それを 「民主主義」 の埒外、言い換えるなら主権者たる国民の手の届かぬところにおくことにほかならない。 それにしても、かつて自党の議員が検察の捜査を受け、つぎつぎと逮捕・起訴されたときには、「検察ファッショ」 だのなんだのといって非難していた自民党の諸氏が、選挙に負けて野党に回ると、今度は一転して検察を持ち上げ、政府を攻撃するとは、これはなんとも無様なご都合主義以外のなにものでもない。 政治と金の問題は、たしかに重要な問題である。しかし、その摘発と捜査が検察の恣意に任されるなら、これは政治と政局を動かす大きな武器となる。悪質な違法行為は論外だが、法と手続きの煩雑化はその完璧な順守を困難とさせるものでもあり、場合によっては、「一罰百戒」 を名目とした捜査機関による恣意的な摘発と捜査をも可能にする。それは、政治家に対する生殺与奪の権を検察に与えるに等しい。 国会がほんとうにこの事件に関心を持ち、真相を究明したいと望んでいるのなら、検察という名の虎の威を借るキツネのようなことをするのではなく、開会直前に逮捕された石川議員を釈放させ、国会の場で宣誓のうえできちんと証言させるべきだろう。それが、少なくとも 「国権の最高機関」 たる議会を構成する者らの矜持ではないだろうか。検察の捜査は、被疑者の身柄を拘束せずとも可能なはずである。 政府を攻撃するという目前の利益だけで検察の威を借るような、現在の自民党のご都合主義的な言動は、「統帥権干犯」 や 「国体明徴化」 などの名を借り、一部の軍人や民間右翼を利用して、ときの政府や対立する政党、政党人を攻撃し、自らの墓穴を掘ったかつての愚かな政治家らとそっくりである。もっとも、検察が軍のような実力部隊ではないということだけは、幸いというべきではあろうが。 たしかに、55年体制以来、長年権力を独占してきた政党としては、野党慣れしていないという点はあるだろう。しかし、鳩山政権に対する 「社会主義」 などというピントのずれた非難や、先日発表された党の新綱領原案(要旨)なるものの、選挙前とかわらないイデオロギッシュな愚かさといい、その志のあまりの低さにはあきれるほかにない。 だいたい、党の綱領というものは一時的な政治状況に左右されない、党の長期的な基本方針を定めた文書のはずだが、これを見ると、現在の自民党には、どうやら現在の対立状況しか目に入ってないようだ。ということは、ひょっとすると、このままずっと 「万年野党」 の地位に甘んじるつもりなのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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