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カテゴリ:政治
今日も一日暑かった。かの三蔵法師の一行がとおった火炎山もかくや、といった暑さである。巨大な城壁のようにそびえるビルに四方を囲まれて、燃える石炭のようなアスファルトの上を歩いていると、真っ赤に灼けた中華鍋の底をはいずり回っているような気がしてくる。信長に焼き殺された快川国師のように、「心頭滅却すれば、火もまた涼し」なんてのんきなことを言っている場合ではない。 自民党の代議士会で、元防衛庁長官の中谷・石破両氏らが、首相に対する痛烈な批判を行ったが、それを横で聞いていた首相は、なにやら今にも泣きそうななんとも情けない顔をしていた。『資本論』 には、「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない」 という一節があるが、中谷氏らは、ようするにわれわれはもうあなたを王としては認めませんよ、と言っているわけだ。 首相は、どうも王は王であるがゆえに王なのだと、単純に思い込んでいて、自分が続投を宣言すれば誰も文句は言わないだろうと高をくくっていたみたいだが、どうやらそうは問屋がおろさないという状況になりつつあるようだ。 大将には、やはり人望というものが必要なのであって、そうであればこそ、困難な時期にあっても、この人のためならば、と身命をとして闘う人間も出てくる。敵とぶつかったとたんに、次々と味方が離反していくということは、その人にもともと大将としての資格がなかったということを意味している。 自分の面前で、次々とお前は大将失格だと言われるようになっては、大将としての権威はすでに失われているも同然だが、その横で、先生に叱られた子供のような泣きそうな顔をしていては、ますますどうしようもないだろう。この人は、議員総会を開けば、ああいった批判が出てくることも、まったく予想していなかったのだろうか。 選挙の大敗が明らかになった直後の会見でもそうだったが、内心の動揺をああも簡単に顔に出すようでは、それだけですでに指導者失格である。前首相が 『鈍感力』 なる本を贈ったのも、その意味ではまったく的外れというわけでもない。ただし、鈍感でさえあればいいというものでは、もちろんないけれど。 もっとも、今のところ出ているのは批判や愚痴だけであって、かわりにおれがやってやろうという人間は、まだ見当たらないようだ(一部には、小池百合子なんて話もあるそうだが、ほんまかいな)。ようするに、火中の栗を拾おうというだけの度胸を持った人間もいないということだろう。 先の郵政選挙で、実力もないのに小泉人気のおかげだけで当選した、独自の地盤もなにも持たない若手議員とかの中には、「このままでは選挙が戦えない」みたいな不満だか愚痴だかがくすぶっているようだ。その気持ちは分からぬでもないが、はたしてそれでいいのだろうか。 そもそも、こういうことになったのは、首相という国のトップに着くべき党の総裁を、政治家としての経験や資質、見識や能力ではなく、「選挙に勝てる人」「党の看板にぴったりの人」 などという、安易で安直な基準で選んだことに最大の原因があるのではないのか。 別に麻生氏のことを言っているわけではないが、なんとなく人気があるとか、一部に受けがいいみたいな、テキトーな基準で、次の総裁を選んだりしたら、また同じことになるような気がするのだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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