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カテゴリ:ギリシア哲学
古代ギリシアの哲学者ゼノンというと、「飛ぶ矢は飛ばない」 とか、さまざまなパラドックスを提出したことで知られているが、その中でも一番有名なのは、たぶん 「アキレスは亀に追いつけない」 という話だろう。 ところが、ゼノンは次のように問題をたてる。(問題を簡単にするため、最初のハンディは100mで、亀の速さはアキレスの半分とする。本当は、天下無敵の英雄アキレスの半分の速さで走れる亀なんて、亀にしては超特急なみなのだけど)
以下同文 さて、のろまな亀さんにどうしても追いつけないアキレスは、絶望のあまり・・・・という話ではなかった。 しかし、この論法でも、最初100mあったアキレスと亀の差は、50m, 25m, 12.5m, 6.25m, 3.125m, 1.5625m・・・・というふうに、どんどん縮まっている。であれば、常識的に考える限り、どこかでアキレスは亀に追いつき、追い越すはずである。 たとえば、アキレスが、最初にあった100mの差を半分の50mに縮めるのに10秒かかったとすれば、次の10秒で残り50mの差はなくなり、めでたくアキレスは亀に追いつけるはずだ。小学校の算数の文章問題で使う 「追っかけ算」 でも、中学校の数学の一次関数や未知数を使った方程式によっても、同じ答えが同じように出てくる。 これが、この問題を正しく解くために必要な、問題の立て方である。このように問題を立てれば、現実となんら矛盾せずに問題を解くことができる。 ところが、ゼノンはそのようには問題を立てていない (たぶん、意図的に)。 この場合、アキレスと亀の差が縮まるにつれて、アキレスが目の前の亀が今いる位置に到達するまでの時間もますます短くなっていく。 最初、10秒かかったとすれば、次は5秒, 2.5秒, 1.25秒, 0.625秒, 0.3125秒 ・・・・ というように。 この数列の和はいわゆる無限級数というやつで、計算がいかに無限に続こうとも、20という値に収束し、これを超えないことは分かっている。だから、ゼノンが言うような、際限のない追いかけっこをする必要は本当はないのであり、スタートからまさにその20秒を超えた瞬間、アキレスにとってはスタート地点から200mのところで、アキレスは亀を追いつき、追い抜くということになる。 だが、ゼノンの論理は、次第しだいにビデオテープの速度をおとし、スローモーションで映すことによって、いちばん大事な最後の場面が絶対にスクリーンに映らないように、時間をどんどん引き延ばしていくようなものである。 実はゼノンは、アキレスと亀という二人、ではなかった一人と一匹の競走と言いながら、本当は同時にではなく、まずアキレスを、次に亀をというふうに別々に、しかも時間と距離を細かく細かくぶつ切りにしながら走らせている。 亀もアキレスと同様に同時に走っているにもかかわらず、アキレスはまず、今目の前の亀がいる位置まで到達しなければならないという理屈で、実際には本当に亀がいる位置よりも手前で、つねにアキレスを無理やり停止させているわけだ。 ゼノンは、アキレスが亀に接近する様子を、最初の100mという差を次々に分割するというやりかたで提示している。しかし、0でない数をどんな数で割っても0にはならないように、この場合、最初の差である100mの分割をいくら繰り返しても、0に無限に近づくだけでけっして0にはならない。だから、アキレスは絶対に亀に追いつけないということになる。 「距離」 とは実体的な存在ではなく、単なるベクトル量にすぎない。だから、どんどん縮めてゼロにすることは可能だ。にもかかわらず、ゼノンは 「距離」 を、あたかも実体的な存在であるかのように扱っている。 ゼノンは、時間と距離の分割を無限に繰り返すことで、論理のうえだけではあるが、アキレスが亀に追いつくまさにその瞬間を、無限に先へ先へと延ばしているわけだ。まるで、主人公が目の前に見える城にどうしても行き着けない、カフカの小説のように。 結局、ゼノンの論理は、まさにアキレスが亀に追いつくその瞬間で、事実上時間が停止し、その先へは絶対に行けないように仕組まれている。しかし、言うまでもなく、実際の時間は同じ速さで (妙な言い方だけど)、途切れることなく流れている。だから、ちゃんとアキレスは亀に追いつき、亀を追い越すことができるのだ。 このゼノンのパラドックスは、数学では無限という概念に大きな影響を与えたのだそうだ。ここに矛盾が存在するとすれば、それは無限と有限、さらにゼロという概念が含む矛盾ということになるだろう。だが、そっちのほうは全然専門ではないので、置いとくとして、このパラドックスからは、次のような教訓も得られるのではないだろうか。 それはつまり、途中の論理にはどこにも間違いがないにもかかわらず、その結果が明らかにおかしいというときは、前提となっている問題の立て方そのものを疑ってみる必要があるということだ。この場合で言えば、ゼノンによる問題の立て方を受け入れた人は、すでにその時点で、ゼノンが仕掛けた巧妙なわなにはまってしまったということになる。 最初の問題の立て方が間違っていれば、そのあとの論理がいかに正しくとも、正しい結論は得られない。前提が間違っていれば、正しい答は得られない。問題を正しく解くためには、まずは問題を正しく立てることが必要なのである。 ゼノンさんは2000年以上前に死んでいるし、このパラドックスも本人ではなくアリストテレスが書き残したものなので、残念ながら、この話でゼノンがなにを言いたかったのかは、よく分からない (「運動の不可能性の証明」 と言われてはいるが)。しかし、このパラドックスからは、こういう教訓も読み取れるのではないかと思うのだ。 どうでしょう、ゼノンさん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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