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カテゴリ:陰謀論批判
「9.11陰謀論」 の信奉者と、「アポロ謀略論」 の信奉者とは、かなりの部分で重なっているようだ。たしかに、どちらもアメリカ政府による 「謀略」 を主張するという点では、同じ構造をしている。 だが、ほんらい、9.11のような航空機衝突によるビル崩壊という事象にしても、アポロの月への着陸と探査という活動にしても、その検証は、高度の専門的知識と能力、さらには加工された二次資料ではない、大量の一次資料の検討という、気の遠くなるような作業を必要とする (むろん、私はそんな面倒なことはごめんです。それに、そんな能力もありません)。 ところが、このような 「陰謀論」 の信奉者たちは、簡単に手に入る二次資料についての単純素朴な印象と、中途半端な知識に基づいて、「月着陸は捏造だ!」 とか、「9.11はアメリカの自作自演だ!」 などと主張しているように見える。 そこにあるのは、「相対性理論は間違っている」 といった類の、様々な 「疑似科学」 と同様の、生半可な科学知識に基づいた 「専門家」 への不信と批判であり、その底には、5年間の 「小泉政治」 を支えた 「ポピュリズム」 とも共通する心性が見え隠れしている。 そもそも、「専門性」 の否定とは、かつて毛沢東によって主導された 「大躍進」 政策や 「文化大革命」、さらにはカンボジアのクメールルージュ (ポルポト政権) によって進められた 「知識人」 敵視政策の根拠となっていた論理である。 たとえば、50年代の中国の 「大躍進」 では、近代的な製鉄法が否定され、原始的な溶鉱炉 (土法炉) による製鉄が全国民に強要された結果、大量の貴重な鉄製品が溶かされて、なんの役にも立たないただのおしゃかばかりが、山のように生れることになってしまった。 60年代末の 「文化大革命」 を収拾するために取られた 「下放政策」 が、 当時の学生の教育水準を大きく低下させ、社会が必要とする専門家の不足を招いたこと、また70年代のポルポトによる 「知識人」 敵視が、大量虐殺と国民の困窮、さらには長期の内戦という悲劇的な結果を招いたことは、いまさら指摘するまでもないだろう。 世の中には、「専門バカ」 という言葉もあり、たしかにそれに値するような 「学者」 とかもいるかもしれない。しかし、この言葉は、ほんらい自己の狭い 「専門性」 にのみ閉じこもっていて、社会的な常識や責任感が欠如しているような 「専門家」 を揶揄する言葉である。したがって、その 「専門性」 や 「専門的能力」 自体は、否定されるべきではない。 また、たしかに世間には、自己の 「専門性」 をひけらかして素人を小馬鹿にしたり、わざと難解な言葉遣いで、煙にまいて喜んでいるような、品性下劣な 「専門家」 もいるかもしれない。さらに、ときの権力者だとかにすりよっては、彼らに都合のいいことばかりを言っている、「御用学者」 といった者もいるかもしれない。 しかし、いうまでもないことだが、そのようなことは 「専門的問題」 の 「専門性」 そのものを否定する根拠にはならない。それとこれとは、別の話である。 「専門家」 や 「知識人」 を、さしたる根拠もなしに疑ったり、ただこきおろすことで溜飲を下げるのは、ニーチェの言葉を借りるならば、疎外された心情としてのただの 「ルサンチマン」 であり、大西巨人ふうに言えば、たんなる 「俗情」 にすぎない。 ようするに、高度に 「専門的」 な問題に口出しする者には、当然のことながら、それ相応の能力と努力、そして覚悟が要求されるものである。むろん、その程度のことは、自分自身の問題として、「薬害」 や 「食品公害」 といった問題に、真面目に取り組んでいる人々や、そういった経験が少しでもある人たちにとっては、いまさら言う必要もないことだろう。 しかし、昨今の 「謀略論・陰謀論」 の流行を見ていると、どうもそのような 「誠実さ」 が感じられない。むろん、そのような 「陰謀論」 を信じている人の大半は 「善意」 なのかもしれない。しかし、世の中、なにごとも善意だけではかたづかないものである。 ぶっちゃけて言えば、「親ブッシュ・親小泉」 か 「反ブッシュ・反小泉」 かというような、表面的な違いはあっても、非合理的で情緒的、しかも安直だという点では、このような 「陰謀論」 の流行も、「小泉政治」 を支えたのと同じ 「ポピュリズム」 現象にすぎないように見える。 つまるところ、その根底に流れている心性も、多少の差はあっても、同じものにすぎないように思える。「批判」 とは、なによりもまず、自らが持つ偏見や思い込み、独断に対して向けられるべきものである。おのれ自身を疑うことなしに、ただ他人に対してのみ向けられる安直な 「疑い」 の視線など、本来の批判精神や懐疑といったこととはなんの関係もないものだ。 昨今、はやりの 「メディア・リテラシー」 なるものも、まず必要なことは、おのれ自身の知性を磨くことのはずだ。自分を磨くことなしに、多種多様で、しばしば相反するような情報の中から 「真実」 を見抜くことなどできるはずあるまい。自分の趣味や偏見だけで、情報の正邪を見分けることができるならば、誰も苦労しないのだ。 愚にもつかぬ 「猜疑心」 ばかりやたらと発達させて、ただただ、「おれは絶対に騙されないぞー」 とか 「みんな騙されるなよー」 などと、力みかえっていてもしょうがあるまい。「落とし穴」 は、自分の前のほうや自分の外にばかりあるとは限らないのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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