「結果論」 と 「目的論」 の混同について
気がつくと、いつの間にか今年も残り少なくなっている。今夜はこの国のほとんどの皆さんが、1日だけのにわかキリシタンになるという日である。 昨日、いつものように夕方の買い物に、近くにある大型スーパーに出かけたところ、子供連れの家族客などで店内は熱気むんむんの大賑わいであった。ふと、気がついたのが、4, 5歳くらいの男の子。広い店内を、なにやら泣きそうな顔をしてバタバタと駆け回っている。 どうやら迷子になったようである。店内は大人の背よりも高い商品陳列棚がいっぱいに並んでいるから、見通しが悪い。目の位置の低い小さな子供にとっては、なおさらである。すでに半べそ状態であった。 店員も誰も気付かない (気付かないふりなのかもしれない)。声かけようかな、どうしようかな、でも変なおじさんに間違われてもなんだしなー、などと思いながらしばらく見守っていたら、お兄ちゃんを見つけたらしく、いっぺんで笑顔になってかけよっていった。一件落着のめでたしめでたしであった。 さて、プラトンの弟子であり、したがってソクラテスの孫弟子であり、かのアレクサンダー大王の家庭教師でもあったアリストテレスは、『形而上学』 の中で、世界を動かしている原因として、「形相因」、「質料因」、「始動因」、「目的因」 の4つを上げている。 このうち、「形相因」 と 「質料因」 というのは、ややこしくてよく分からないし、今は関係ないのでおいとくとして、「始動因」 と 「目的因」 というのは、次のようなものである。第三は、物事の運動がそれから始まるその始まり (始動因としての原理) であり、第四の原因とは反対の端にある原因で、物事が 「それのためにであるそれ」 すなわち 「善」 である。というのは、善は物事の生成や運動の全てが目指すところの終わり (すなわち目的) だからである。 こういう、世界を動かす原理としての 「目的因」 という考えでなりたっている世界観は、一般に 「目的論的世界観」 と呼ばれているが、そのような世界観が、世界を支配する 「神」 という存在を必要とすることは明らかだろう。近代の科学というものは、そういう 「目的論的世界観」 を否定するところから始まっている。 たとえば、「進化論」 では、よく 「キリンは高いところの葉を食べるために首が長くなった」 みたいな説明がされる。しかし、これは便宜的な説明であって、正確に言うと間違いである。進化とは、けっして一定の 「目的」 を目指して進むものではない。ランダムに発生する変化の中で、最も環境に適したものが生き残るため、結果的に、進化は環境への適応を目指して進んでいるかのように見えるだけである。 「目的」 というものは、いうまでもなくなんらかの 「意思」 を前提とする。自然界の中に、そのような進化を起こす 「意思」 は存在しない (存在するという人もいるかもしれないが、そういうことにしておく)。そのことを考えれば、目的論的な進化の説明が、結果から振り返った、便宜的なものでしかないことは明らかだろう。 こういう 「結果」 として生じたことを、あたかも誰かの意思によって最初から目指されていた 「目的」 であるかのように勘違いすることは、世界を合理的な必然性をもって進行するものとみなし、そのような論理だけで説明しようという傾向の強い人らが、とくに陥りやすい落とし穴である。 これが極端にまで進行すると、自分がいつも不運な目にばかり遭い、なにをやってもうまくいかないのは、周りの皆が私をねたみ、結託して陰謀をたくらんでいるからだ、みたいな 「妄想」 にまで発展する。しかし、それが 「妄想」 であることに、当人はなかなか気付かないものだ。 そのうえ、こういう 「妄想」 を抱いている人も、そのことを除けば、普通に社会生活を送っていたりするものだから、周りの人も最初はそれが 「妄想」 であることに気付かず、当人の 「妄想」 に巻き込まれてえらい目にあったりする。 宗教でいうと、古代キリスト教の一派であったグノーシス派には、これと同じような傾向が強く表れている。グノーシス思想の特徴は、われわれ人間は神によって欺かれているのだという教義にある。グノーシスとはそのような暴かれた 「真理」 のことであり、つまり、これは巨大にして壮大な 「陰謀論」 なのである。 『カラマーゾフの兄弟』 の中に、次兄イワンがアリョーシャに親に虐待されながら 「神ちゃま」 に祈る幼い女の子のことを語る場面がある。そこで、イワンが提出している問題は、全知全能で、悪などこれっぽちも含んでいない、善の巨塊であるはずの神によって造られたのに、「いったいなぜ世界は不条理なのか」、「いったい世界にはなぜ悪が存在するのか」 ということだ。 この問題 (弁神論) は、昔から多くの神学者たちを悩ませてきた問題であるが、彼らグノーシス主義者に言わせると、その答えはこうである。 物質的なこの世界を作った造物主は、実は本当の神ではない。自分を神と勘違いし思い上がった、偽物のあんぽんたんの神である。この世界はそのような不完全な神によって、物質という穢れた質料から作られている。だから、この世界は不完全なのであり、悪に満ちているのだ。 キリストとは、そのような偽の神の偽りを暴き、われわれ人間に真の福音と知恵 (グノーシス) を伝え、完全にして真なる世界への道筋を示すために、隠れている本物の神からひそかに遣わされた使者なのだ。(適当な要約) なんだか、M78星雲から人類を救いにやってきたウルトラマンみたいな話ではあるが、なかなかよくできた、奥が深い話である。 論理的にいう限り、たしかにこのような説明は筋がとおっている。ただし、もちろん証明は不可能であるし、また反駁することも不可能である。 グノーシス派の影響が強いと言われている 『ユダの福音書』 では、一般に 「裏切り者」 の代名詞のように言われているユダが、実はキリストの一番弟子であり、その秘密を知っていた者として描かれている。 それによると、ユダは、「キリストの復活」 という最大の奇跡を実現するために、あえて 「裏切り者」 の汚名を覚悟して、キリストをローマに売り渡したのだそうだ。これも、確かに形式論理的にはいちおう筋がとおっている。なぜなら、ユダの裏切りがなければ、キリストの復活もなかっただろうから。 それはそうかもしれないし、そうではないかもしれない。本当のことは分からない。ただ、こういう思考の根底には、「世界のすべてを合理的に説明したい」 という欲求があり、単なる偶然や様々な意思・行為の重なりによって生じた 「結果」 をも、「単一の意思」 によって意図的に追求されたものとして、一元的に説明しようという傾向があることは明らかだ。 こういう論理は、たしかにすべてを説明できる。しかし、証明も不可能であれば、したがって反証も不可能である。そもそも、すべてを一元的に説明する論理、なんでも説明できる論理とは、言い換えればそれだけで完結している論理なのであり、したがって 「具体的な事実」 による証明など、必要としない論理なのである。 ある原因によって、なにかの結果が生じたとしても、その結果が、誰かによって当初から目指されていた目的であるとは即断できない。ある事件によって、ある人が大きな利益を得たからといって、その事件はその利益を得た者によって、故意に起こされたのだと推論するのは、一見合理的であるかのように見えるが、それほど根拠があるわけではない。 昨日、クリスマス前のにぎわう店の中で迷子になった子供は、たぶんはしゃぎまわっているうちに親とはぐれてしまったのだろう。不注意の責任が親にあったのか子供にあったのかは分からない。だが、「迷子事件」 の原因はそういうことであり、そのために子供は 「迷子」 になったのだろう。 むろん、むかし、映画 『鬼畜』 で岩下志麻と緒形拳が演じたような親も、世の中にはいないわけではない(「ヘンゼルとグレーテル」 もそうだった)。だが、ふつう 「迷子事件」 はただの偶然で起こるものである。少なくとも、「迷子」 になりたくて 「迷子」 になる子供などはいない。