|
カテゴリ:政治
最近、いろいろと腹が立ったもので、あちこちのサイトに乱入して、年がいもなくいささか暴れてしまいました。このようなことは、まことにあってはならないことでありまして、二度といたしませんので、ご迷惑をかけた方々には、心よりお詫び申し上げます。 たとえば、憲法は理念=理想を掲げるものであって、必ずしも現実とあっていなくともよい、というようなことを言う人もいる。憲法には、その国の政治理念が掲げられるという意味では、そのとおりである。事実、アメリカの憲法にしてもフランスの憲法にしても、そのような側面は多少なりとも持っている。しかし、そのような主張には、いささか居直りじみたところがありはしまいか。 憲法に掲げられた 「理念」 というものは、少なくともその国の政治勢力を含めた、大多数の国民によって共有されているのでなければ、意味がない。そうでなければ、それはただの 「空文句」 でしかない。いかなる理想主義的な憲法であれ、その国の国民の意識や現実とあまりに懸け離れてしまえば、最終的には憲法そのものが軽んじられ、その全体が粗末に扱われるといったことも起きかねない。 両大戦間のワイマール共和国時代に、いわゆるワイマール憲法がたどった運命が、まさしくそのようなものだった。当時、ワイマール憲法は、世界で最も民主的な憲法だと言われたものだが、そのような憲法も、その出生の秘密を巡って、左右両翼から 「正当性」 に終始異議が唱えられる中では、ヒトラーとナチスの台頭を抑える役目など果たしようがなかった。 どちらも一部であるとはいえ、「改憲派」 は 「護憲派」 を 「反日分子」 と呼び、「護憲派」 は 「改憲派」 を 「好戦主義者」 などと決め付けて、互いに罵りあっているような状況は、左右を問わず、この国がいまだに政治的に未熟であることを象徴している。「改憲」 を主張する人にも、様々な人がおり、様々な内容があり、その理由もいろいろなのである。 おそらく、理性的な 「改憲派」 の主張の根拠には、憲法と現実があまりに乖離しすぎた場合、憲法そのもの、憲法の全体が軽んじられ、おろそかにされていくことになりはしないか、という危惧もあるのだろう。 9条のなし崩し的な 「解釈改憲」 が進められてきたことには、賛成・反対はともかくとして、それなりの根拠がある。自衛隊を完全に廃止して、その創設以前のような憲法と現実の完全な整合性を取り戻すことなどには、現実性もなければ、多くの国民の支持も得られないだろう。 だとすれば、国家の最高法規としての憲法の重みを取り戻すためには、現在の憲法を一定程度、現実にあわせて修正することも必要なのではないのか。上のような危惧は、けっして根拠がないわけではないし、このような主張も理論的に言う限りでは、合理性がないわけではない。 憲法の 「正当性」 の問題にしても、そうである。問題なのは、60年も前の憲法制定の過程や、制定当時の状況といった過去のことではない。現にいま、現憲法の 「正当性」 を疑う人々や、政治勢力が多数存在しているという現実が問題なのだ。そこでは、ただ過去をほじくり返したり、理屈ばかりを言っていてもしょうがない。結局、憲法の 「正当性」 とは、歴史の問題でも理論の問題でもなく、今現在の国民による明示・黙示の承認という、今現在の問題なのだから。 現在の憲法が、事実上あまりに長い間不問に付されてきた結果、このような状況が生じてきたのだとすれば、「国民投票」 によってその正当性を問うということは、けっして意味のないことではない。安倍内閣のもとで成立した 「国民投票法」 に、様々な問題があることは否定しないが、その逆に、ただただハードルを高くすることで、「改正」 を困難にすることだけを目指すのは、現憲法の 「正当性」 をめぐる問題を、根本的に解決することにはならないだろう。 さてと、仕事に戻らねば お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[政治] カテゴリの最新記事
|